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なぜ社会は存在しないのか

―あらまし―
最近僕は「社会」を「世界中の人間を包摂してかつ各個人と相互作用するなにか」と定義していて、その存在を信じている人々が「社会人」だと思っている。残念ながら僕は社会人ではない、つまり「社会」の存在が信じられない。それは
①すべてを包摂する概念は認識できない
②「社会」は複雑すぎて個人と相互作用できない
ように思えるからである。


台風や季節の変わり目だからか、調子が良くない。やるべきこと・やりたいことはいくらでもあるが、朝起きられない、不安で動悸がして何も手につかない、というわけであまり進まず。他人から見ると怠けているように見えるのだろう。
世の中の多くの人と自分の間で、感覚があまりにも違うように感じることが多い。当事者支援とか当事者研究関連のトピックに興味を持つのは、そういう「周囲」と「自分」のずれに共感するところがあるからだと思う。
ここ数ヶ月(もっと昔からかもしれないし、最近のことかもしれない)、自分が「社会」に属しきれていないという感覚を強く持つようになった。調子が悪くなるとこの感覚が頭(実は体も)をぐるぐるして、色々なことを考える。「社会」について考えることを書いてみることにする。

僕にとっての「社会」

ここで前提として言葉遣い1)を明確にしよう。ただしこれだけでA4何ページか文章を書けそうだから深入りは避けます。
頻繁に登場する「社会」という言葉は結構厄介で、色々な使い方がある。しかも僕と同じ用法でこの言葉を使う人は多くないと思う2)。これがよく勘違いや噛み合わない議論のもとになる。さて、僕は
社会とは、世界中の人間を包摂してかつ各個人と相互作用するなにか
だと思っている。それはシステムと言えるかもしれないし、場と言えるかもしれない。細かいところは人によって捉え方が違うだろうだけど、上の定義くらい抽象化すればある程度一般性があるのではないか。
ちなみに、似た使い方をする言葉として「現代」もあると思う。「現代」は―ここでは時代区分の話をしてるわけではないことに注意―だいたい「社会」と似たものだと思う。ただ「現代」の方が時間的な領域感が強くて、それとの対比で「社会」は空間的な領域、という雰囲気が大きいのかなと思う。直近数十年が「現代」であるのに対して、太陽系内くらいの宇宙空間が「社会」みたいな、印象。
補足をもう1つ。あとで説明するように、僕は自分が社会に属せていない、と感じている。そのせいで「社会」という言葉では僕を含む人間の集団、その場やシステムを表現することができない。この概念にあてる言葉を何にするかは悩んでいるのだけど、当面は必要があればこれを「人類」とか人類・ヒトの共同体とかと呼ぶことにする3)。

1) ちゃんと言葉にするのは初めてなので、後々もっとうまく説明できるようになるかもしれない。意見とかあれば教えてください
2) もしいたら仲良くなれるかもしれないからしゃべりたいです
3) 例文: 僕は人類には貢献したいが、社会には必ずしも貢献したくはない。

社会は世界中の人間を包摂するのか

ここまでの話から「世界中の人間を包摂」する「社会」に僕が属せないと感じるのはどういうことか、という問題が生じる。パッと思いつく可能性は3つ:
①僕が勘違いをしていて、僕は社会に属している
②上の定義に問題がある
③僕は人間ではない
このうち①ならこんな記事書いてないし、②ならその定義を太字で書く意味がわからない。というわけで僕の主張は③だ。でも、僕は明らかにヒト(Homo sapiens sapiens)である4)。あれ、矛盾?

僕は「社会に包摂される人間」が「ヒト」全体と重ならない、と考えるようになった。それなら「世界中の人間を包摂する社会に僕が属せない」こともできる。
そんなバカな、と思うかもしれない。でも「社会人」という言葉を思い出してほしい。「社会に包摂される人間」の集合は「社会人」であってヒトではないことが示唆されている、とも捉えられないだろうか5)。社会人はヒトの部分集合なのだ。

4) そういえば小学生の頃によく「サル」と言われたな、と思い出した
5) 「現代人」についても同じことが言えるような気がしている

社会人

次に、じゃあ「社会人」とは何なんだ、という問いが生じる。これも深入りすると抜けられなくなるから簡単に済ませたいが、少し触れてみようと思う。
端的に言えば、僕は上で定義した「世界中の人間を包摂してかつ各個人と相互作用するなにか=社会」の存在を信じる人々が「社会人」だと考えている。僕は信じられなくなったので、社会人にはなれなくなってしまった。

社会は存在するのか

最近、上で定義した社会、つまり「世界中の人間を包摂してかつ各個人と相互作用するなにか」が実際に存在するとは思えなくなってきた。各宗教における「神」に近い概念だと思っている。社会の存在を信じることは、ヤハウェ、アラーや八百万の神を信じることと似ているような気がする6)。何が信じられないか説明させてほしい。

6) 社会や様々な神やそれ以外の何かを信じることを否定する意図はない。僕自身そういうもののいくつかの存在を信じているような気もする。祖父母の霊とか

まず「世界中の人間を包摂して」の部分。『なぜ世界は存在しないのか』(Amazon)という本で、すごくざっくり言うと「差異がなければモノは認識できないので、すべてを包摂する『世界』は存在しえない(存在すると思えるなら世界ではないなにかと対比しているので、対比の相手を包摂できていない)」みたいな考え方を学んだ。これがとても印象的で、同じ議論ですべてを包摂する「社会」は存在し得ない(仮にあったとしても認識できない)のでは、と思うようになった。

それから「各個人と相互作用する」という部分も僕には信じられない。
まず「社会と個人が相互作用する」とはどういうことか説明してみる。社会が個人に影響するのはわかりやすいだろう。「高度に情報化した社会で人は~しなければならない」「グローバル化する社会の中で...しない人は生き残れない」みたいなよく見かける言い方は、社会が個人に影響している(と信じられている)ことを示す例だ。
一方で、実は個人も社会に対して影響することができる(と信じられている)。「貧困をなくすために私たち一人ひとりの意識を変えねば」「私が~することで世界から犯罪をなくしたい」といった類の目的意識をよく耳にするし、僕が観察する限り社会人の間では、こういう社会をよくするために行動するのが「善」だとされているようだ。これは「個人が社会に影響できる」という前提なしには受け容れられないはず。個人が何をしても社会が変わらないなら、個人が社会を変えるために行動する意味が曖昧になる。つまり個人も社会に対して影響力を行使できる(と信じられている)のだ。
でも、本当にそうだろうか。
1つの切り取り方として、「社会」をいわゆる「複雑系」と見ることができる。「社会」では個人の行動の総和を超える物事が生じる、つまり創発する。「社会」を構成している以上、たしかに個人の行動は何らかの形で、広い意味で、社会全体に影響を及ぼすかもしれない。でも、ある人のある行動の影響を特定・抽出するのは、少なくとも今のところ不可能に近いように思える。そもそも複雑系や創発現象自体がよく理解されているとは言い難い。個人の行動が社会をどう変えるか推測するのは、ブラジルでの蝶の羽ばたきが地球全体の気候にどう影響するか推測するようなものだ。賢い人たちが高度な数学やら計算機やらを総動員して取り組んでも複雑系の挙動を理解するのは難しいのに、僕たち凡人がひとりでそれを理解することができるだろうか。そして自分の行動の影響が理解できないのに、狙った変化を起こすために適切な行動を選択することができるだろうか。個人的には、ヒトの共同体のうちいま主流のものが持つ特性(戦争が起きる、格差が生まれるetc)はその構成員の行動に大きく影響されず、構造的に必然的に生じるし維持されるような気がしている。

おわりに

本当は、ここまで述べた僕の「社会」観を前提に、別の話をしたかった。
社会ではルールを守ることが非常に重視されていて、基本的にルールさえきっちり守っていれば報酬(社会的な信用)が得られる、というのが僕が20年かけて学んだ経験則だ。期日を守る、やるといったことはやる、義務は果たす、挨拶をする...。当たり前のような小さなルールの集合を満足するのは意外と難しいのか、そうできている人は少ないらしい。振り返れば僕を褒めてくれる「社会人」の多くは、僕がいかによくルールを守るか、という点を褒めてくれる。これは全然悪いことではない、それで信用してよくしてくれる人が多いので、本当にありがたい。
ただ、その一方で「社会」はルールを守らないことも要求しているように見える。「既成のルールにとらわれてはいけない」「まじめすぎては成功できない」など色々な形でルールを破ることが推奨されるし、特定の進路を選ぶためにはそれが要求される7)。そのあたりの矛盾について書きたかった。また社会に属せない一方で社会との密接に関わらざるを得ない僕の生存戦略としての「ルールを守る」こと、その戦略の限界をテーマにしたかった。

7) 例えば真面目に講義ばかり聞いても研究者にはなれない。多少講義をさぼってでも興味がある本や論文を読み込まねばならないらしい

ただ長くなってしまったし、1投稿に2つの内容を載せるのはうまくない。「社会」観は最近の自分の考え事の基礎になる大事な部分なので、単独で投稿することにした。
タイトルはどうしようか。ここは調子に乗って上に紹介したMarkus Gabrielの本に倣ってみようか。

令和元年10月15日(火)

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