批判的世の中の居心地悪さ
世の中では「批判的思考」がもてはやされている。我々は学校でも職場でも批判的であることを求められる。私たち全員が十分に批判的な態度を身に着けている、と言うと色々な人に怒られそうだが、少なくとも僕が出会う人たちは、多かれ少なかれ「疑う」ことを知っていて、その意味で程度の差はあれ批判的だと感じる。
これは常に言われることだが、何においてもバランスが大切である。肉ばかり、野菜ばかり、米ばかりというのは良くないらしい。同じように、批判ばかりというのも居心地が悪いな、とよく感じる。生活する中では、批判的にならず、むしろ相手の言葉を文字通りに―いわば無批判に―受け容れることが大切なんじゃないかなあ、と感じる場面がたくさんある。というわけでここでは「無批判的であること」について、思うことを書いてみる。
批判的であること
そもそも批判的ってどういうことなのだろう。
Wikipedia『批判的思考』(2020/11/27閲覧)には(1)、「批判」という言葉の意味について、次のように書いてあった:
批判という言葉は反対する、受け入れない、などのイメージから否定や非難と同義で用いられるケースが存在するが、批判とは情報を分析、吟味して取り入れることを指し、客観的把握をベースとした正確な理解が必要である。なるほど、僕の直観に照らして違和感のない記述なので、信用することにする(2)。そして批判的思考とは
あらゆる物事の問題を特定して、適切に分析することによって最適解に辿り着くための思考方法であるとのことである(3)。これを読んで初めて知ったが、批判的思考は問題解決のための思考方法らしい。
さて、ここで僕の中の違和感の正体があっけなく言語化されてしまった。問題解決が目的ではない場面で批判的になるのはどうなの、ということである。以上、話は終わり。...というのも悔しいから、批判的でないことについて少し考えてみる。
無批判的であること
無批判的、という言葉については残念ながらWikipediaの項目もないし、Google先生に聞いてもハッキリとは答えてくれない。批判的の否定、くらいのことでしかないから、色々な解釈があるだろう。そこにつけこんで、僕は「提示された物事を見たまま・聞いたままに受け容れるさま」というようなことを「無批判的」と言うことにする。
さて、子供、大人に関わらず、批判的思考を教育する場面では暗に「人間は自然には無批判的であり、教育を通して批判的になれる」という前提が置かれているように感じる。これは本当だろうか。
例えば、久しぶりに昔の知り合いとご飯に行ったけどあまり盛り上がらず、解散するときに「また話しましょう」と言われたとする。これを文字通りに「相手はまた自分と話したいらしい」と解釈するだろうか。社交辞令だな、と思う人が多そうである。同じように、僕が誰かに「イケメンですね」と言われたとしても、文字通りには受け取れないと思う。(極端な)社交辞令か、煽りだと思ってしまうだろう。
上に引用した通り、批判というのは情報を吟味して、物事を客観的に把握しようとすることらしい。「イケメンですね」の例において、僕は相手の発言を吟味して、自分がイケメンだとは考えにくく、相手は社交辞令ないし煽りで同じ発言をする可能性があり、後者だろうと判断することになる。これはまさに批判的なプロセスだと思う。
このように多くの人は、意識せずとも、場面に応じて批判的になっているように思う。問題が生じるのは人が常に無批判的であるからではなく、(世の中ないし周囲の人から見て)批判的であってほしい場面で無批判的であるから、つまり適切な使い分けができないからではないか。こうなれば当然、いつ批判的で、いつ無批判的であるべきか、が次に問題になる。
無批判的であることの良さ
ここでは、無批判的であることに絞って考えてみる(4)。いつ批判的であるべきか、という考察は掃いて捨てるほどありそうだ(し、さほど興味がない)。そして「いつ無批判的であるべきか」という問いに正面から挑むのは大変そうだし、人に押しつけられるほど自信があるわけでもない。だから、無批判的であることにどんな良さを感じているか、書いてみる。
(4) 片側を議論すれば反対側についてもわかる、と思っているわけではない。おそらく批判的でも無批判的でも構わない場面が存在するだろう
一言で言うと、無批判的であることの良さは、それによって問題を回避できることである。扇情的に言うなら、批判的思考が問題を解決するのに対して、無批判的思考は問題をなかったことにする。どういうことか。
往々にして、他者の主張を文字通りに受け容れることは難しい。Aさんが「あなたはイケメンですね」と言ってくれても、僕としては「本当か?」と思う。Bさんに「わさび醤油はまずい」と言われても、わさび醤油が好きな僕は、それに賛同できない。こういう場面でも常に無批判的であるためには、他者と自分は同じ世界に生きているわけではない、という認識を持つ必要がある。僕の世界では自分はイケメンではない(と多くの人が言う)し、わさび醤油は美味しい。でもAさんの世界で僕はイケメンであり、Bさんの世界でわさび醤油はまずい。つまりすべての主張の前に「私の世界では」が省略されている、と思い込むことで初めて、常に無批判的であることが可能になる。
批判的思考の枠組みでは、Aさんと僕が共に生きる世界の中で(客観的に)僕はイケメンなのか、という問題があり、その解決を目指すことになる。無批判的思考の枠組みでは、前提となる世界観の違いに帰着させてしまうので、確かに違いはあるが、問題ではない(5)。
(5) 世界観の違いを問題とみなして「解決」しようとする人も多いが、それは異なる価値観の間に順位付けをすることにつながるので、怖いことだと思う
上の引用の中に「客観的把握をベースとした」とあるように、批判的思考は客観的に判定可能な物事と相性がいい。それに対して「つらい」「悲しい」「おいしい」「好き」と言った主観的な事柄には、無批判的な態度の相性が良いと思う。
誰かが「理由はないけど好き」と言ったとき、それを受け容れられるだろうか。
誰かの「つらい」という言葉を聞いたとき、批判的になっていないだろうか?その人の置かれている状況で人は本当につらいのか?大したことじゃないのにつらいと言っていないか?などと考えてしまわないだろうか。相手の発言、状況を吟味すると、その先に「その人はつらいのか」という問題が現れて、往々にして「つらくない」と解決されてしまう。
直感でしかないが、問題解決は価値観の統一、多様性の排除につながりやすいように感じる。もちろん、ある場面を問題と捉えて解決することで、前進することもある。しかしときには、違いを問題化せず、無批判に受け容れて共存した方が暮らしやすいこともあるのではないか。無批判的であることは難しい。もしかすると、批判的であることよりも難しいかもしれない。わからないものを受け容れる必要があるからである。でも、無批判的であることで得られるものは大きい。僕は無批判的であることを大切にしようと思う。
あとがき
なんの断りもなく主観的とか客観的という言葉を使ったけれど、ここについても色々思うところはある。人々の分断、みたいなことが色々なところで言われているが、これはどんなことを事実だと思うか、という点に注目して分析できる気がしている。何を事実と認定するかの違いは、この記事の文脈で言えば世界の違いに相当するから、擦り合わせるのは非常に難しいだろうな、みたいなことが最近気になっています。
令和2年11月27日(金)