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やりたいこと(190425)

僕はなにをしたいのか

「君は何をしたいの?」と聞かれたときの答えがようやく固まってきたので、書いておく。タイトルにわざわざ日付を入れるのは、時間とともにやりたいこと・興味があることが変化することを受け入れやすくするため。自分に対して時間的な一貫性を求めがちなのだが、それはあまり良い制約ではないので、外していきたい。

さて、やりたいこと。まず大きく出ると:
「もっと人間らしい世の中にする(少しでもそうなる助けになりたい)」
→いまの世の中はどうも複雑すぎたりうまくいってなかったり、「人間」を投影したものになっていないと思う。人間が創り出す社会なんだから、人間らしさが反映された社会であってほしい。人間らしい社会の悪いところならまだ受け入れられるけど、人間らしくもないし合理的でもない社会の悪いところに巻き込まれて幸せになれないのは我慢できない。し、仮に自分が幸せになれてもその裏で幸せになれない人がいることを無視できないので、自分が巻き込まれないように強者になって生きればいいということでもない。

そしてもうひとつ興味を持っていることは:
「人間との向き合い方を考える」
→人間らしい世の中にするために人間らしさについて考えたいが、どうやればそれが可能なのだろう。どうも学問や科学は人間を捉えきれていないような気がする。芸術がおそらくかなり重要な役割を果たすだろうし、宗教も人間らしさについて考える上で避けられないテーマのような気がする。注意したいのはいま「人間らしさとは何か」という問いを立てているわけではなくて、そもそも「人間らしさについて議論するのに適した場はどんなところか」という問いについて考えたい。それは学問と芸術と宗教の重なるような、よくわからない場になるのではないかなあ。

とは言うもののどちらもあまりにも大きく抽象的だし、もう少し大学(院)で勉強するつもりである以上もっと具体的な問いも立てておかなきゃいけない。ということで近場でやりたいことは:
「人間の行動を記述する方法を開発する」
→人間らしさを考えるときに、人間と他のもの(動物や生きていないものなど、全部)の振る舞いの比較をしたら面白いのではないかと思っている。いま僕たちが「人間らしさ」だと思っている何かしらの「社会的な」振る舞いだって、客観的に記述してみたらアリの行動とか、さらには流体の振る舞いとかと同じ部分があるかもしれない。その比較ができるように、人間の解釈を通さずに人間の行動を記録する方法があってほしい。人間が観察するのではどうしても解釈が入ってしまうのではないだろうか。

ということで研究者として自分が生きていく間(=研究者であることが自分にとって最適だと思う、かつ、才能と環境と運に恵まれている間)には最後の人間の行動の記述をテーマにしていきたい。それをやれる環境と巡り合えるか、わがままを言えるほどの成果を出せるかは別の話だけど。
具体的な道筋は考えすぎずに、方向性だけ常に忘れずに進んでいくつもりです。
平成31年4月25日

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