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京都・奈良旅行

この夏休みは、旅行で京都・奈良に行った。修学旅行で奈良に行く人が多いのかもしれないが、僕にとっては人生初の奈良だった。一緒に旅行をした人の都合で独特な行程の2日間になり、飛鳥時代と神社仏閣がキーワードの旅だった。

行った場所

1日目

崇道神社・中村藤吉本店・平等院・宇治上神社・橋寺・吉野(お好み焼き)・蓮華王院・京都国立博物館・京都ことこと

2日目

飛鳥びとの館・高松塚古墳・文武天皇陵・板蓋宮跡(飛鳥宮跡?)・橘寺・川原寺・夢市茶屋・石舞台古墳・飛鳥寺・奈良文化財研究所飛鳥資料室・奈良国立博物館・コムゴン(ベトナム料理)

感想

これまでお寺や神社、仏像などとはかなり疎遠だったが、この2日間でかなり身近な存在にはなった。ちょうど日本史や日本地理を勉強したところで、京都や奈良の地図を見ながら実際に行く場面を想像することで勉強のモチベーションも上がったし、実際に行ってみて感動することも多かったし、とてもいい機会だった。

仏像

特に仏像は印象的で、これまでほとんど見てこなかったが、今回の旅行中に嫌というほど見た。ポーズをとっている系の像を見ると、その動きを真似したくなる。楽しい。仏像と自分の向き合い方がわかったということだけでも面白かった。

明日香村

それから、明日香村がよかった。田んぼが広がり、これこそ日本の原風景(そんなものがあるならば、だが)といった雰囲気。古の都の余裕のようなものを感じた。大きくて新しい観光・商業施設なんて必要ないぜ、十分生活できるからね、みたいな。高松塚古墳や奈良文化財研究所の資料館もよくできていて、決して広くはないのに研究者がどんな資料に基づいてどんな考察をしてきたのか読み取れる展示だった。ちなみに、個人的に四神の玄武がお気に入りだった。白虎の顔もよかった。

京都国立博物館

博物館・美術館も、大学入学くらいまでほとんど行く習慣のない場所だった。やっと行くことのハードルが下がってきていて、今回の京博は楽しかった。
行ったときには「京博寄託の名宝」をやっていた。日本史を勉強するときに多少文化史も勉強したおかげですごく有名な画家だけはわかるようになっていて、資料で名前を見た作品が展示されていることに少し感動した。俵屋宗達の風神雷神図屏風が出ていて、楽しかった。絵の中でも実際の像でも、ポーズをとっている楽しそうなキャラクターが好きになることがわかった。

宇治

宇治もとても良くて、平等院鳳凰堂は今回の旅行で一、二を争う印象的な場所だったかもしれない。宇治川の東西が浄土と現世に対応する可能性が高い、という話を聞いていた。「ここが浄土か」と思いながらJRの宇治駅を降りて、偶然あまり待たずに中村藤吉本店に入ることができ、美味しい生茶ゼリーを食べた。そのあと平等院に入り鳳凰とかを観たりして、雨は降っていたが雰囲気がよかった。生茶ゼリーは美味しいし平等院もよかったし、やはり浄土だった。それだけでなく、川を渡って宇治上神社に行ったら雨がかなり激しくなり、厳しい現世といった感じだった。
もちろんそういうのは思い込みで、実際には宇治川の東も西もたいして変わらないと思う人もいるんだろう。でも伝承や作者の意図みたいな小さなフィクションの物語を信じ込むことで、僕の日常は少し楽しくなっている気がする。

行程を全部組んでもらったので予定に従って行動すればよく、楽で楽しい旅行だった。次は京都をもう少しちゃんと観光したいな。でも奈良市も魅力的だし、吉野や熊野にも惹かれるなあ。
令和元年9月12日

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