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進路講演会:自分自身の振り返り

僕が卒業した高校では、進路選択の参考にするため、ときどきOBOGなどの話を聴く機会がある。昨年に続き、今年も高校2年生が対象の進路講演会で話をさせてもらった。話をしたのは9月下旬なのだけど、なんとなくまとめきれず、投稿が遅くなってしまった。

話の内容は、文理選択を控えた時期の高校生に伝えたいことと、自分がしゃべりたいことのバランスをとって決めた。自分にとってすごく有意義な機会だったし、聞いてくれた高校生たちにもある程度伝えたいことが伝わったみたいで、印象的だった。

話した内容

僕たちは50分の授業を2コマもらう。たくさん講師が呼ばれていて、生徒たちはその中から2人を選んで話を聴くので、同じ内容の話を2回繰り返す形だった。

1. 自己紹介・専門について

自己紹介は割愛。僕の専門が何か、というのは難しい問題なのだが、ここではとりあえず「システム科学」と「データサイエンス」をちょっとだけ紹介した。5分くらいしか使わなかった。

2. 高校入学から今までの自分史

話の大半(30分強)は高校入学から今に至るまでの僕がやったことと、その時々に何に興味を持っていたか、を紹介する自分語りに使わせてもらった。

自分史で伝えたかったこと

とにかく伝えたかったのは「将来の変化を覚悟してほしい」ということ。自分も興味がぐるぐる変わっていて、高校のときに思い描いた将来像と今考える将来像はだいぶ違っている。周りにも高校生のとき選んだ職業につくのが嫌になった人、文系で進学したが結局理転した人、など変化を経験している友達が少なからずいる。
どうも最近は「早い時期から目標を定めて、それに向けた最適な選択をしていくことが良い!」みたいな空気があるように思える。でも目標が達成できなくなったとき、または目標が変わったときのことは語られない。そのときの辛さを軽減するために、人生は思い通りにならない、ということを僕の実例で感じてもらうことを目的にした。

3. メッセージ

最後に、僕がいま大事だと思っていることをいくつか、簡単に伝えて終わりにした。

個人的に大事だと思うこと

これは僕の価値観でしかないので、言いたいけど押しつけたくないメッセージだった:
「人生に意味はない」
「自分の直感に従った方がいい」

覚えておいてほしいこと

「将来は思い通りにならない」
「異分野の話が合う人は貴重」

感想

正直、生徒たちは授業だから聞かされているだけで、さほど興味ないかなという想定だった。でも意外と真面目に聞いてくれるしメモも取るし、ちゃんと聞いてくれた。僕たちのときと違って、高2の間に受験に関連した手続きが始まるらしいので、意外と進路のことが身近な問題なのかもしれない。
そして、高校生は意外と素直だった。僕の周りを見ていると、母校の生徒にはめんどくさい(良い意味で)やつがたくさんいるような気がしてしまう。僕の話にも反論が出ることを想定して「人生に意味はない」とか強めのフレーズを使ってしまった。でも感想を読ませてもらったら、
「『人生に意味はない』という説明に納得して、すごく気が楽になりました」
みたいに素直に受容してくれた子が何人もいた。自分の発言の責任の大きさも感じた一方で、「どうやって社会に貢献しようか」「自分の人生をどう意味づけようか」といった問に縛られて苦しんでいる人は思ったよりたくさんいるのかもしれない、と感じた。

令和元年12月30日(月)

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