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2024-09-27 Lancaster, Oxenholme, & London(イギリス)

今日はLancaster最終日。

大学のフォトスポット(?)

朝食は同じ感じ。

午前でワークショップは終わりだが、午後に希望者向けの小旅行を企画してくれていた。行き先は少し北側のLake district。国内でも有名なエリアなのだと思う。

現地の学生の車に乗せてもらって移動。昨日は日産の車、今日はmazda 2だった。どちらもマニュアルなのがよかった。他の人はエスティマに乗っていたし、そこら中で日本車を見る。


Windermereという湖を眺めながら昼食。このあたりにはたくさんの湖があるが、"Lake"という名前がついているのは1つだけで、この写真のWindermereは"Lake"という名前ではない、と主催者が教えてくれた。ちなみに"mere"はドイツ語のMeer(海)と同じ語源を持ってそうだった。


少し車で移動して、ハイキングスタート。ワークショップ後の交流会だと思っていたが、思っていたより本格的なハイキングなのかもしれない。

Windermereなのか自信がないが、何かしらの湖。非常に天気がよい。現地の人たちは天気が良すぎて"unusual"だと言っていた。この天気だからハイキングが楽しいが、彼らは雨でも来るらしい。よくやるな。


羊・牛・馬などが放牧されているエリアの中を通り抜けることができる。そのため、動物が逃げないように壁やゲートがあり、ゲートは動物が通り抜けられないように工夫されている。このように壁を乗り越えないといけない場所がいくつかあった。


どんどん登る。


また湖が見える。きれい。天気が非常に良い。もう二度とイギリスでこんな天気を見ることはなさそうなので、何回でも言うが、天気が非常に良い。

頂上まで登って降りて、また車に乗せてもらって昨日とは別のお店へ。同じようにパブとレストランが一体になっている形式。周りの人に教えてもらって、せっかくなのでFish and Chipsを頼む。メニューにはfried haddock and ...みたいな名前で載っているのだが、店員さんも「Fish and chipsね」と言ってきた。


おしゃべりに花が咲き時間を忘れていたのだが、電車の時間になってしまい、名残惜しいが退散。店の近くからローカル線に乗り、Oxenholme Lake District駅で特急に乗り換える。

3時間かけて23:40にロンドンに到着。



着いたのはLondon Euston駅で、泊めてもらう友人の家までさらに地下鉄に乗る。


地下鉄なので地下に降りる。


絵や写真で見たことあるロンドンのTubeだ!車両は狭いのだが、予想外に編成が長く、しかも速い。路線にもよるみたいだが、加減速が急で、乗車時間の割に遠くまで運ばれる。


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