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2024-10-03 in Potsdam(ドイツ)

10月3日はドイツ統一の日で、祝日。だいたい日曜日と同じ雰囲気。今日のハイライトはポツダム会議が行われた場所を見に行ったこと。

休日ということで、Potsdamにいる日本人2人と待ち合わせていた。


中央駅に向かう途中。運河でなにかイベントがあるのかな。


徒歩+バスでNeuer Gartenへ。工事でバスのルートが変更されていて、一本乗り逃した。

Schloss Cecilienhof(ツェツィリエンホフ宮殿)へ。チケットを買って中に入ってみる。



ドイツ敗戦後の1945年7月から8月にかけて、アメリカ・イギリス・ソ連の首脳が集まったポツダム会議の会場で、当時の様子が保存されており、パネル展示などもある。この会議の中でポツダム宣言が表明されていて、自分にとってはそこの印象が強かったのだが、会議の主要な議題はドイツの敗戦処理を含むヨーロッパの戦後で、日本は公式な議題に含まれていなかったらしい。実際展示の中でも、日本の話は前面に押し出されているわけではなかった。知らなかった。


見学したあと、公園内の湖畔にあるレストランへ。写真はおそらくビールをつくる設備。本当に使っているのか、飾りなのかは知らない。

前から気になっていたお店なのだが家からは遠く、来る機会があってよかった。

ビール4種類セット。左からHell, Bock, Weiss, Weizenだったはず。WeissというのはBerliner Weissとして有名らしいビールカクテルのベースになるもので、甘いシロップを想定して、すっぱめになっている。


食事はBiergulasch。


店の様子2。


公園内を歩くと、別の宮殿(という日本語の印象からすると小さいかもしれない)もあった。


夕食は、日本人3人でいたので面白がって寿司を食べに行った。

寿司を含む日本食・アジアの食事はかなり流行っていて、いくつもお店があるのだが、なぜかたいていベトナム料理と一緒にされている。中華は単独の店になっていることが多い気がする。内装は写真のような感じだが、あくまでも飾りで、メニューとはあまり関係ない。

何種類か注文して3人でシェアした。右奥からたまご、海苔の代わりにアボカドで巻いた太巻き(中巻き?)、まぐろの細巻き、手前は太巻きに衣をつけて揚げたもの。そして最も注目すべきは、右奥のドライアイス。テーブルで水を注いでモクモクさせてくれる。何の意味があるのかは本当にわからなかった。インスタ(or TikTok)映え?

たまごは作り方が気になるくらいギュッとした感じで、薄かった。工場で機械的に攪拌した卵液を使っているのだろうか、みたいな話をした。揚げてある太巻きは新鮮で面白い。わさびは、この前食べたものでは全然香りがなくて、今回も緑色過ぎて怖かったので試さなかった。ガリは惜しかったが、乾燥していて、日本のガリとは少し違った印象。

とにかく、外国で寿司を食べるなら、日本では見たことがないようなものを頼んだ方がよい。中途半端に似ているとがっかりするので...。

途中で店員さんが「中国から来たの?」と聞いてきたので、「日本人だよ、看板全部読めるよ」と答えた。店員に日本人がいるか聞いてみたら、ベトナム人だけ、とのこと。下手したら「ラーメン」とか「山田錦」を読めている店員はいないのかもしれない。笑

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