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2024-10-08 in Berlin(ドイツ)

ベルリンで毎年開催されるFestival of Lights(光の祭典)を観に行った。



週末から話は聞いていたのだが、夜にベルリンに行くのが面倒だったのと、正直「プロジェクションマッピング見て楽しいか?」という気持ちもあり、行くか迷っていた。

今日は偶然、Potsdamの中でもBerlin寄りのキャンパスで講演会を聴くことになったので、Berlinに住む友人と一緒に電車に乗れるしベルリンに行くかー、となった。






当然ライトアップが始まるのは夜(19時)で、だいぶ早く着いてしまったので、ベルリン初上陸の友人と中央駅→ブランデンブルク門→Potsdamer Platz付近を散歩。写真は上から連邦首相府(ショルツさんがいる場所だと思われる)、国会議事堂(Bundestag)、ブランデンブルク門。看板は門の西側の「3月18日広場」と書いてあるもので、1848年のフランスの二月革命がベルリンに波及して本格的な衝突が起きた日らしい。

今なら世界史の授業をかなり楽しめるんだと思う。


夕食はEinsteinというオーストリア料理(情報源はGoogle)のカフェ。雰囲気はよかったが、前菜の値段をメインの値段と勘違いしていて、メイン料理が安くないことに入ってから気がついた。


ひとまずビール。0.2Lの選択肢があって素晴らしい。注文のときに「0.2Lでも樽から(vom Fass)なんですよね」と確認したら「そうだけど0.2Lは本当に小さいよ?」と言われた。十分です。


メインに手を出す気になれず、18 EUR程度の前菜。"Essigknödel"という料理で、Knödelは超有名なジャガイモ団子(野球ボールくらいの大きさ)なので、これならお腹に溜まるじゃんと思ってワクワクしていた。しかしさすが前菜、スライスされたKnödelにお酢(Essig)ベースのおしゃれなソースがかかっている、というものだった。とても美味しかったけど、あとから研究室のドイツ人たちに聞いたら、その味付けは初めて聞いた、とのことだった。

いざ光の祭典へ。



ブランデンブルク門。


これは国立歌劇場周辺だったはず。


ベルリン大聖堂とテレビ塔。結構暗かったのにスマホでこの写真を撮れて、我ながら偉いと思う。


ベルリンにはDussmannという大きな本屋がある。ただの本屋ではなくて、"Kultur Kaufhaus"という名前の通り、CD、DVD、文具、楽譜なども置いている。友人に紹介したかったのと、ドイツ語の本を入手したくて、途中で寄り道した。ドリルのような冊子を買ってしまった。本当にやるだろうか。

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