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2024-10-12 in Potsdam(ドイツ)

 今日は散歩をして、友人と美術館に行った。家のすぐ近くに印象派の有名な画家の作品がたくさん展示されている、ヨーロッパって感じ。

今日はとにかく天気が良かった。散歩しないことが許されないような空だった。




家の近くにある謎のタワー。新宿のNTTの小さい版みたいな見た目だが、結局なんの建物なのかよくわからなかった。






川沿いを歩き、大きな橋をわたって、Babelsbergの公園を通り抜ける。

公園の門を出ると急にBabelsbergの町に出る。


おそらく観光名所の1つ、Rathaus Babelsberg。名前的に旧市庁舎なのかな?




BabelsbergはPotsdamの中心部ほど混雑しておらず、カフェもゆったりできそうな雰囲気のところが多かった。いくつか気になった店の1つに入ってみた。Banana Breadが美味しかった。

Potsdamの中心部に戻って友人と昼食。

"Fresh Hot Orange"というメニューがあって、怖いもの見たさで注文。たしかメニューにはオレンジとミント・はちみつと書いてあって、ねぎ?も入っていた気がする。オレンジジュースを温めて飲みたいと思ったことがなくて、なにか考えたこともない魔法がかかっていることを期待して頼んだのだが、魔法はかかっていなくて「温かいオレンジジュース」という感じだった。ただミント(など?)の爽やかさのおかげで思ったより飲みやすくて、冬に寒くなってきたら飲みたくなるのかもしれない。


食事はベーグル。パニーニみたいに焼いてあるのかな。美味しかった。

そのあとはBarberini美術館へ。大金持ちが自分のコレクションを展示している私設美術館なのだが、モネをはじめ印象派の有名な画家の作品をたくさん持っていることで有名、たぶん。


中庭にある"Jahrhundertschritt"(Century step)という作品。足と手が不釣り合いに大きく感じて、(Penfieldの脳地図の)ホムンクルスみたい、と言ったら少しウケた。


企画展はモーリス・ド・ヴラマンク。大雑把には印象派の少しあとのフォービズムの画家ということになるらしい?(今回見るまでヴラマンクの名前すら知りませんでした。)これまで、ドイツではヴラマンクにフォーカスした展覧会がほとんどなかったとのこと。

常設展には印象派の作品がたくさん出ていた。今年が印象派150周年の年で、それを記念して、ということだったのかもしれない。




印象派の絵ってなんとなく「自分はそんな印象持ったことない、よくわからん」という気持ちになっていたのだが、ヨーロッパで(特に夏に)少し暮らしてみて「たしかにこういう気持ちになるわ!」と思えて面白かった。この2つの作品には川・舟・橋が出てくるのだが、上の方の散歩中の川の写真と比べて、150年経っているとは思えない雰囲気の近さで(もちろん現代的にはなっているけど、とにかく雰囲気の話)驚いた。




自分が写真を撮るときに捉えようとしているのも結局はこういう「印象」なのかもしれない、と思わされた。でも写真よりも絵の方がそういうことは得意なんだろうな。



Hefeweizen。泡がもりもり。


Geschnetzeltes Züricher Art(チューリッヒ風)。僕はSpätzel(一番右)が好き。

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