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2024-10-19 (2) in Berlin(ドイツ)

今日の午後はベルリンで過ごした。博物館からのオペラ。



地球の歩き方で名前を見た「赤の市庁舎」。初期のベルリンの中心にあったニコライ教会・ニコライ地区を散歩した。



カフェに入って遅めの昼食。サーモンの載ったキッシュ。おいしかった。色々なお店で"Frühstück"(朝食)というメニューを見るのだが、たいてい時間に関係なく頼める。


Altes Museum(旧博物館)。


そのすぐ裏にあるNeues Museum(新博物館)とJames-Simon-Galerie(写真左側)。

ベルリンの国立博物館の年間パスを買った。常設展のみの券は、学生だと25ユーロ!何回も入れるのも嬉しいのだが、それ以上に30分でも気兼ねなく入れる、というのが魅力的で購入。


Neues Museumではこんな企画展(常設展の一部)をやっていたが、しっかり見る時間はなく、背景知識も皆無に等しかったので全然内容はわからなかった。展示の一つに、おそらく何かが所蔵されている博物館を世界地図に示したパネルがあったのだが、日本の島の形が変だった上に、「東京」のマーカーが和歌山のあたりに配置されていた。さすがに調べてくれよ。


Staatsoper Unter den Linden(ベルリン国立歌劇場?)。昨日のBerliner Philharmonikerもそうだが、チケットが売り切れていることも多いのに、今日のチケットは残っていた。せっかくなので買ってみる。僕はClassic Cardの特典で、直前なら10ユーロでオペラを見られるのだが、なんと正規料金90ユーロ弱の席をとることができた!


夕焼け。


少し時間があったのと、昨日夕飯を食べ損ねた反省があり、急いで夕飯を食べられる店を探す。


ここ。看板が白飛びしているけど...。

こちらに来て初めてのイタリアン。


さくらんぼジュースとバナナジュースを混ぜた飲み物。


なぜか頼んでもいないのに出てきたサラダ。料金にも入っていなかった。ただのサービス精神なのか、チップを弾ませる作戦なのか、意図が全く分からなかった。


2人でピザとメインを注文したのだが、ピザが36cmで想像以上に大きい。メインも肉料理を頼んだら温野菜みたいな付け合わせがしっかりと出てきて、焦る。オペラか、食事か、何かをあきらめなければならない雰囲気。


どうにか食べ切り、小走りで劇場に向かい、ギリギリ間に合った。素晴らしい。





今日観たのはDie Sache Makropulos(マクロプロス事件)という、チェコで発表されたオペラ。カレル・チャペック原作で、それを基にレオシュ・ヤナーチェクが台本をつくり、作曲もしたらしい(あとからWikipediaで読んだ)。食事で予習どころではなく、登場人物の名前どころか歌がチェコ語であることすら知らずに開演になってしまったのだが、英語・ドイツ語字幕の併用で内容を追いかけることはできて、楽しむことができた。最初はなんだこの訳のわからない作品は、と思ったのだが、だんだん腑に落ちてきて最後には「よかったなあ」と思わされて、静かに感激した。

ちなみに余談だが、ドイツでは色々な場面で微妙に英語を信用できず、ドイツ語を見た方が確実なことがある。


Friedlichstrasse駅まで歩き、S Bahnで帰った。

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