スキップしてメイン コンテンツに移動

2024-11-01 in Köln

今日はケルンでは祝日。飲食店以外のお店はあまり開いていない。今日の午後にはケルン大聖堂を観光した。


今日は曇り。


中央駅から見たHohenzellern橋。


大聖堂の上の方には雲がかかっているように見える。


朝ごはんをカフェで食べた。なぜか最近お節介モード全開で、他の机にいた日本人のお客さんがドイツ語を聞き取れずに頼んだパンを受け取れていなかったのに気づいたので突然間に入って客と店員の両方を驚かせてしまった。店員さんには感謝されたけど。



Gürzenichという会議場のような場所。もともとは歴史のある建物だったようだが、いまはただの会議場に見えた。と言っても1999年のG8の会場になったらしいので、「ただの」会議場ではないのかも。記念碑にはKeizo Obuchiの名前もある(下の方)。


近くにいた人たち。何者かはわからない。


Römisch-Germanisches Museum(ローマ・ゲルマン博物館)。本体は僕が前に来た時からずっと改修中なのだが(10年近く閉まっている?)、少し離れたBelgisches Hausに簡易的な展示が出ていた。写真はローマ時代?の錨など。これが2000年前か、と驚かされた。


墓石?なのか、文字の書いてある石板のようなものがいくつも展示されていた。


なぜかこれだけ字がゆるい。


ヘラクレスが獅子と格闘しているシーン。

ケルンに留学中の友人と合流。あまり外に出ないとのことなので、お節介モード全開でBrauhausに連れていきたい!と思い、昨日とは違うBrauhausへ。


飲みかけな上に写真もブレてる。これはFrüh am Domというお店。ここも地球の歩き方に載っていた。ここに限らないが、ピークを避けるように早めに動くとスムーズに店に入れる。反対に、昼・夜のいい時間には多少待つことを覚悟しないといけない。


Brauhauspfanne(ブラウハウスのフライパン)。


店内の様子。地下にトイレがあることが多い。


ケルン大聖堂へ。


当たり前だが中も天井が高い。


ステンドグラスもきれい。


床の装飾も細かい。

チケットを買って、大聖堂の南棟に登る。たしか500段くらいの階段で100mくらい登るのだったと思う。全然見当はずれかもしれない。おそらく3度目の挑戦。


細い螺旋階段を登っていく。すれ違うのが大変。真ん中くらいに、鐘を見学できるスペースがある。


さらに登ると、塔のてっぺんが見える。


高いところにいます。こんな高さにまで細かい装飾があり、そのこだわりに狂気すら感じる。


下りの螺旋階段の入り口付近の石には、1873、1875など、おそらくその石が設置された年(もしくは準備された年?)がときどき刻まれていた。


地下の宝物館も見た。ところどころでローマ時代の壁への言及があり、地下でもこんな感じで「昔の壁」だと思われるものが見えるようになっていたのだが、あまり説明がなくよくわからなかった。なんで地下に壁があるんだ?

少し散歩して、夕食はまた別のBrauhausへ。これまた地球の歩き方に載っていたBrauhaus Sion。1318年創業らしい。


ケルシュ。


だいたいライン地域っぽい食事はわかってきたつもりだったが、ここは初めて見る料理もあって楽しかった。Herringsfillet(ニシンフィレ:フィレってなんだっけ?)みたいな名前の料理を頼んでみる。


きっとこれがニシンだ。


ふたを開けた全体像。ジャガイモとか雑だが、ニシンは酢漬けのようになっていて、疲れがとれそう。脂ののったしめ鯖みたいな感じだった。


店内の様子。


デザートにApfelküchleinというメニューを頼んでみる。初めて見た。リンゴを輪切りにして揚げたもの。発想は面白いが、「輪切りのリンゴに衣をつけて揚げた」以上でも以下でもなかった。甘さは主にシナモンシュガーから来る。


少し早かったので少し散歩。チョコレート博物館がある、ライン川の中州エリアに行く橋。みなとみらいの汽車道の小さい版みたいな雰囲気。お節介モード全開なので、チョコレート博物館の前で交互に写真を撮っていたドイツ人2人組に話しかけて写真を撮ってあげた。一緒にいた友人に「日本で外国人が日本語で写真撮りますよって話しかけてきたら奇妙だよね」みたいなことを言われて、たしかに!となった。面白いからよい。


中州はおしゃれな雰囲気の街並みになっていて、特に営業している店も見当たらなかったが、散歩している人がそれなりにいた。港のクレーンをモチーフにしているらしい、不思議な形のビルがあった。SFみたいな景色だったが、日本では耐震強度的にアウトな形かもしれない。


吊り橋でRheinを渡る。


中心街はRheinの左岸にあり、右岸側は少しダークな、ローカルな雰囲気。移動遊園地があって、入り口に人が溜まっていたのだが、警察と消防が来ていた。ちょうど脇を通る頃に警察が「今日は営業終了です」とアナウンスして、入り口に溜まっていた人がいっせいに帰り始めた。なにがあったんだろう。


ケルンメッセ・ドイツ(国名ではない:国名はドイツ語でDeutschland)駅。ここから電車に乗ってホテルに帰った。

このブログの人気の投稿

Interpretation des Satzes "Lies dich glücklich!" ("Lies dich glücklich!"の意味)

Eine meiner Freunde hat mich gefragt, was der Satz "Lies dich glücklich!" bedeutet. Ich hatte sofort keine Ahnung davon. Später habe ich es im Wörterbuch und Internet nachgeschlagen, und jetzt denke ich, dass der Satz heißt, "Lies und mach dich glücklich (dadurch)!". Wenn Sie kennen, bitte zeigen Sie mir, was der Satz bedeutet! Es hilft mir sehr. 友達に"Lies dich glücklich!"というフレーズの意味を聞かれて、その場では答えられなかったのだが、気になって辞書やインターネットを調べてみた。"Kauf dich glücklich!"という表現も見つかった。sich(4) lesenという動詞はあるがsich kaufenは見つからなかったので不思議だなと思っていたが、少し経って、どうも"Mach dich glücklich!"に似ているような気がしてきた。これなら言えそうである。machenの部分をもじってkaufenやらlesenにして、「本を読んで幸せになろう!」と言っているのかな、と解釈した。 もし答えを知っている人がいたら教えてください。 令和2年10月29日(木)

なぜ社会は存在しないのか

―あらまし― 最近僕は「社会」を「世界中の人間を包摂してかつ各個人と相互作用するなにか」と定義していて、その存在を信じている人々が「社会人」だと思っている。残念ながら僕は社会人ではない、つまり「社会」の存在が信じられない。それは ①すべてを包摂する概念は認識できない ②「社会」は複雑すぎて個人と相互作用できない ように思えるからである。 台風や季節の変わり目だからか、調子が良くない。やるべきこと・やりたいことはいくらでもあるが、朝起きられない、不安で動悸がして何も手につかない、というわけであまり進まず。他人から見ると怠けているように見えるのだろう。 世の中の多くの人と自分の間で、感覚があまりにも違うように感じることが多い。当事者支援とか当事者研究関連のトピックに興味を持つのは、そういう「周囲」と「自分」のずれに共感するところがあるからだと思う。 ここ数ヶ月(もっと昔からかもしれないし、最近のことかもしれない)、自分が「社会」に属しきれていないという感覚を強く持つようになった。調子が悪くなるとこの感覚が頭(実は体も)をぐるぐるして、色々なことを考える。「社会」について考えることを書いてみることにする。 僕にとっての「社会」 ここで前提として言葉遣い 1) を明確にしよう。ただしこれだけでA4何ページか文章を書けそうだから深入りは避けます。 頻繁に登場する「社会」という言葉は結構厄介で、色々な使い方がある。しかも僕と同じ用法でこの言葉を使う人は多くないと思う 2) 。これがよく勘違いや噛み合わない議論のもとになる。さて、僕は 社会とは、世界中の人間を包摂してかつ各個人と相互作用するなにか だと思っている。それはシステムと言えるかもしれないし、場と言えるかもしれない。細かいところは人によって捉え方が違うだろうだけど、上の定義くらい抽象化すればある程度一般性があるのではないか。 ちなみに、似た使い方をする言葉として「 現代 」もあると思う。「現代」は ―ここでは時代区分の話をしてるわけではないことに注意― だいたい「社会」と似たものだと思う。ただ「現代」の方が時間的な領域感が強くて、それとの対比で「社会」は空間的な領域、という雰囲気が大きいのかなと思う。直近数十年が「現代」であるのに対して、太陽系内くらいの宇宙空間が「社会」...

「無批判的」であること

批判的世の中の居心地悪さ 世の中では「批判的思考」がもてはやされている。我々は学校でも職場でも批判的であることを求められる。私たち全員が十分に批判的な態度を身に着けている、と言うと色々な人に怒られそうだが、少なくとも僕が出会う人たちは、多かれ少なかれ「疑う」ことを知っていて、その意味で程度の差はあれ批判的だと感じる。 これは常に言われることだが、何においてもバランスが大切である。肉ばかり、野菜ばかり、米ばかりというのは良くないらしい。同じように、批判ばかりというのも居心地が悪いな、とよく感じる。生活する中では、批判的にならず、むしろ相手の言葉を文字通りに―いわば無批判に―受け容れることが大切なんじゃないかなあ、と感じる場面がたくさんある。というわけでここでは「無批判的であること」について、思うことを書いてみる。 批判的であること そもそも批判的ってどういうことなのだろう。 Wikipedia 『 批判的思考 』 (2020/11/27閲覧) には (1) 、「批判」という言葉の意味について、次のように書いてあった: 批判という言葉は反対する、受け入れない、などのイメージから否定や非難と同義で用いられるケースが存在するが、批判とは情報を分析、吟味して取り入れることを指し、客観的把握をベースとした正確な理解が必要である。 なるほど、僕の直観に照らして違和感のない記述なので、信用することにする (2) 。そして批判的思考とは あらゆる物事の問題を特定して、適切に分析することによって最適解に辿り着くための思考方法である とのことである (3) 。これを読んで初めて知ったが、批判的思考は問題解決のための思考方法らしい。 さて、ここで僕の中の違和感の正体があっけなく言語化されてしまった。 問題解決が目的ではない場面で批判的になるのはどうなの 、ということである。以上、話は終わり。...というのも悔しいから、批判的でないことについて少し考えてみる。 (1) こうやってすぐにWikipediaに頼る姿勢は批判的とは言えないのだろう (2) 信用と言うと少し語弊があるだろう。正しい情報として信用するのではなく、僕の感覚的な理解を言語的に表現したものとして適切だと認める、ということである (3) 「あらゆる」物事の、というのは引っかかるところである ...