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2024-11-09 (1) 歩いてポーランドへ

ポツダムからベルリンまで、RE1という快速に乗ることが多い。RE1はベルリンの先、Frankfurt an der Oderという国境の町まで走っている。ふと思い立って、Frankfurtまで電車に乗り、さらに歩いてポーランドに行くことにした。


ドイツから見たオーダー川。左側はドイツ、右側はポーランド。




ポツダム中央駅へ。日が昇っている時間にここを通るのは珍しい。


電車に乗る前にスーパーでパンを調達した。ついでにレジを出たところにある自販機でコーヒーを買ってみる。コーヒーの種類に関係なく1ユーロ(安い!)だったので、ラテ・マキアートにしてみた。


ただのラテでよかったのだが、多少キャラメルの風味があるように思えて、想像していたのとは違った。


友人と待ち合わせて電車に乗る。終点まで1時間半ほど。Regionalexpress (RE)という名前の通り近距離交通(Nahverkehr)に分類されるので、Deutschlandticketを使うことができ、追加の料金は全くかからない。つまり交通費なしでポーランドまで往復できるのである。


Frankfurt an der Oder(オーダー川沿いのフランクフルト)に到着。

駅の外観。


機関車が何両も見えた。ポーランドとドイツでは電気の規格が違うらしい。直通できる車両もあるようだが、場合によってはここで機関車を入れ替える必要があるのかな。

蒸気機関車も見えた。よく見ると"64 317"という数字が窓の外に見える(圧縮してあるのでここでは見えないかも)。これでネット検索したら、マニアックな感じのドイツ語のサイトが引っ掛かった。ドイツ帝国鉄道(1920 - 1949)の旅客用蒸気機関車の64系(?)で、1934年に製造されたらしい。もう長いことDB博物館の所属だが、なぜかFrankfurt/Oder駅に展示されているみたいで、走るわけではなさそう。

ちなみに調べる中で知ったが、Frankfurt/Oderのサッカーチームの名前は"FC Lokomotive Frankfurt (Oder)"(Lokomotiveは機関車)。

街中に向かって歩く。わかりにくいが、左の木の奥には建物の1面の壁だけが残っている部分があり、写っていない右側にも壊れかけの壁のようなものがあった。第二次世界大戦で破壊されてそのままになっているのだろうか。


(今回は一眼レフの写真も混ぜていく。)


街中の看板にはポーランド語も併記されている。


聖マリエン教会。


知らない街に行ったときには、たいてい観光案内所(Tourist Information)に寄って地図を買う可能性を検討する。結局寄らないことも多いけど。今回は「ドイツ-ポーランド観光案内所」という名前が気になって、寄ってみることに。

あまり面白いものはなかったが、ドイツ側・ポーランド側のレストランが載っている案内パンフレットがドイツ語とポーランド語で用意されていた。お金を払わなくていいのか不安で「もらっていいですか」と聞いたら、無料な上に、インスタントカメラで写真を撮って貼りつけてくれるサービスつきとのこと。パスポートを模した冊子で、中に顔写真を貼って名前を書き込むページがあったのだ。ベルリンならこれで5ユーロ取られる気がする。

対応してくれたお姉さんも優しくて、声をかけてよかった。流暢にドイツ語を話してはいたがネイティブではなさそうだったので、ポーランドの人なのかもしれない。


川沿いを歩く。すれ違った人に挨拶されて、返したら宗教の勧誘のパンフレットを渡されてしまった。説明が始まりそうだったので「あとで読むね!」と言って逃げた。やたらと会話するのも考えものかもしれない。ただし、決して怖い感じではなくて追いかけられたりはしなかった。本人は心からよかれと思って勧誘していたのかな。



国境を越える橋のふもとには色々な旗が掲げられていた。左からEU、ドイツ、Brandenburg。残りはわからない。ポーランドやポーランド側の町のものではなさそう。


親子のオブジェ。



とにかく橋を渡ってみよう。


右側はドイツ、左側はポーランド。


着いた。生まれて初めてのポーランド。右側の看板の"PL"というのがポーランドに入ったことを示しているのだと思う。ここはスウヴィツェという町。







橋を渡ると町の雰囲気がだいぶ変わった。なんというか、さびれている感じ。人や車はたくさんいて、人気がないわけではなく、建物がさびれている。


歩いて来ただけなのに、突然看板が読めなくなる。このZapraszam(y)というフレーズを看板でよく見かけて、調べたら"You are invited (Welcome)"みたいな意味らしい。


子どもが遊べる場所がたくさん用意されていたような気がする。


このままドイツに戻ったら国境を越えた感が薄いので、お店で昼食チャレンジ。とはいえ、ポーランドの通貨(ズウォティ)の現金は持っていないし、英語もさほど通じなさそうなので、ランダムに入るのは怖かった。観光案内所でもらった冊子の出番である。ドイツ語版の冊子に載っている店ならドイツ語が多少は通じるだろうし、クレジットカードかユーロでの支払いができるはずだ(と信じた)。

ということで写真の店に入る。メニューにはポーランド語の下にドイツ語が併記されていた。


店に入ると意味のわからないことを言われて、「ドイツ語か英語は通じますか」と聞く...というイメトレをしてから意を決して店に入ったら、普通にドイツ語で話しかけられた。拍子抜けしたが、正直すごく安心した。


生ビールを注文。ビールの種類はさすがにドイツ語に翻訳されておらず、自分が何を飲んだのかはわからないが、ドイツで飲んでいるものと少し味が違うような気はした。


なにかドイツっぽくないものを、と思いrussische Teigtaschen(ロシアのTeigtaschen)を注文。具入りワンタン?水餃子?みたいな感じ。グルジア料理屋でも似たものを見たことがあり、インド周辺にはモモがあり、東アジアには小籠包・ワンタン・餃子がある。ドイツでは見たことがない。東アジアからスラブ系の東欧まで、文化的につながっているのかな、と思わされる。

ちなみに友人が頼んでいたアヒル肉のTeigtaschenの方が、値段も高いがメイン料理感があった。僕の方も美味しかったのだけど、次回があればそっちにしようかな。


店内から外を見る。入り口にクレジットカードのシール(VISAとかMastersとか)が貼ってあるのを確認していたのだが、食べ終わってから店内に"Zahlung nur Bar"(Payment only in cash)と書いてあることに気付いた。ピンチ。でもユーロで支払えたのでセーフ。レートの関係で、ドイツに比べてかなり安く食事をできた。物価が違うんだなあ。

ずっとドイツ語でつまらないので、帰り際に、スーパー付け焼き刃ポーランド語で「ありがとう」(Dziękuję: たぶんジエンキュィエンみたいな感じか?)と言ってみたら、手を振ってくれた。忙しくて返事ができなかったのか、伝わらなくて誤魔化されたのか、真相は闇の中。

ここはさすがに国境の町で、第二次世界大戦の前にはドイツ領だった時代もあるので、おそらくドイツ語が通じることが多いし、ユーロを使える店も多そうだった。英語はほとんど聞かなかったので、ポーランド語もドイツ語もわからないと厳しいのかもしれない。


外は8.7℃だそう。だいぶ冷たく感じる。


楽しくなって適当に歩いたら、国境の橋から離れる方向に移動してしまった。川沿いに橋まで戻る。河川敷がとても広い。


川の途中まで張り出したところがあり、歩いてドイツ側に近づくことができた。正面に見えるのは川の向こうのドイツの町。


国境の話。右がドイツ、左がポーランド。


橋を歩いて帰る。ドイツ向きの道路はだいぶ渋滞していた。橋を渡ってすぐのところには小銃を持った警官が立っていて、多少物々しかった。


Karl-Marx-Straße(カール・マルクス通り)。東ドイツ時代につけられた名前だろうか。

人気がなくてちょっと不気味だなと思っていたら、正面から歩いて来たお兄さんに話しかけられた。"Excuse me, do you understand English?"と言ってくる。こういうときは観光客を狙った物乞いかも、と思ってひとまずドイツ語で返事をすることにしている。するとドイツ語で流暢にしゃべり始めた。「おじさんのところまで歩いて行く途中なのだが、血液の病気か何かがあって、温かいものを食べたくて、10ユーロか20ユーロか助けてもらえませんか。必要なら明日おじさんのところに来てもらえればお金は返します。」みたいな主張。ツッコミどころしかない。

基本的にこういうときにはお金を渡さずに立ち去ることにしているのだが、今回はなぜかとっさに1ユーロだけ渡してしまった。あとから振り返ると、周りに他の人がいなかったのが怖かったから、そしてあまりにも流暢に、しかもドイツ語と英語を話すので、プロっぽくて不気味だったから、なのかもしれない。家に帰ってから調べたら、周りの国から(物乞いで)出稼ぎに来る・主に東欧の犯罪組織が人を送り込んで物乞いでお金を集めさせている、といったケースがあると書いている人がいた。比較的こぎれいな服装で、妙に手慣れた感じにしゃべっていたので、そういうプロの物乞いだとしても違和感はない。できれば次からはお金を渡さずに立ち去ろうと思った。1ユーロでトラブルを回避できるなら、という気持ちもあるが...。


左側がたぶんRathaus(市庁舎)。



中央駅まで歩く。



駅まで戻ってきた。地元の公共放送のテレビ番組でFrankfurtの街並みが紹介されていて、雰囲気がよさそうだと思って来てみたのだが、実際に昔の街並みが残っているように見えて(おそらく再建も多いが)、楽しかった。

今日はベルリンの壁崩壊から35周年の日。せっかくなのでベルリンに寄ってから帰ることにする。

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