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2024-11-23 Sa. 列車でアムステルダムへ

ベルリンからIntercity(特急列車)に6時間乗り、オランダのアムステルダムに向かった。天気が悪く、寒い上に雨も降ってあまり街歩きをする感じではなかったが、それでもある程度散歩できた。僕は高校生のとき以来ちょうど10年ぶりのアムステルダムで、嬉しかった。




まずはBerlin Hauptbahnhof(中央駅)へ。おなじみFrankfurt/Oder行きのRE1。


中央駅から朝焼けが見える。小さくてわかりにくいが、ドイツの国旗を掲げた連邦議事堂の建物が見えている。


駅構内のエレベータ。ボタンが多かった。


パン屋。友人はパンを買っていた。僕は少しお腹が疲れていてスーパーでバナナを買った。


電車の時間までEinstein Cafeでエスプレッソ・マキアートを飲む。木曜日の方が美味しかった。


Frankfurt/Main行きの次の、Amsterdam CS (Centraal Station:オランダ語)行き。


機関車が客車をけん引するタイプで、車両は古い。なんなら25号車はヒーターが壊れていた。ドイツ語の車内放送では謝っていたが、英語では何も言っていなかった。


車内でバナナを食べる。


連結部分の通路の脇は普通に隙間になっていて、線路が見える。物を落としたら...と思うとヒヤヒヤする。


Hannover、Osnabruckなどを経由して6時間走る。


ICEほどしっかりしていないが、ICにも車内販売はあり、コーヒーを買った。コーヒーの粉をお湯に浸す抽出法で、カップの蓋に網がついていて、粉が口に入らないようになっていた。写真を撮り忘れた。


どう見ても引き戸の手をかけるに見えるのだが、実はこれがスイッチになっていて、横にクリックするように操作すると自動でドアが開閉する。反対に、無理やり手で開けようとしてもビクともしない。"Automatik"(オートマティック)と書いてあるからこれがスイッチなのだろう、と思える想像力が必要。


羊がいた、のだと思う。たぶんオランダの車窓。


アムステルダムに到着。見たことのない電車が停まっている。オランダ国鉄の車両なのだろう。


中央駅の様子。


改札階のゴミ箱。オランダ語でよくわからない、と思いきや、例えば左側は"restafval"で、ドイツ語の"Restabfall"(その他のゴミ)と似ている。これ以降、ドイツ語がわかるとオランダ語の意味も推測できる、という経験を数え切れないほどすることになった。


オランダの駅には改札があるらしい。一瞬戸惑ったが、検札用のQRコードチケットをかざしてみたら通ることができた。



中央駅の北側には西で北海につながっているアイ湾(湾と呼ばれるが水路・川らしい)がある。この川はアムステルダムの東側にあるアイ湖(マルケル湖の南端の部分)につながっている。マルケル湖は100年ほど前までゾイデル湾という北海につながる海だったらしく、そこに流れ込む川がアムステル川で、その河口につくったダム、ということで「アムステルダム」という名前になっているらしい(by Wikipedia)。

10年前に一緒に来た友人がここで水辺まで行って、どういう経緯か忘れたが足だけ水に浸かってしまったことを(友人たちと連絡をとる中で)思い出した。


中央駅は、旧市街(南)側から見るとこんな感じ。反対の川側から見るともう少し近代的な普通の建物に見える。


ひとまず路面電車に乗ってホテルに荷物を置きに行くことにした。10年前に見たのと同じ車両がたくさん走っていてテンションが上がった。どうやら、当時は新しかったこの車両がいまでは古いものになっていて、より新しい車両が導入されているようだった。


中央駅には時計台と見せかけてなぜか風向計があった。金色の針が風向きに合わせて(ほとんど止まることなく)くるくると動いている。


路面電車の様子。乗り降りの際にチケットのQRコードをスキャンするなり、ICカードをタッチするなりしないといけない。


ホテル。中央駅から路面電車に30分ほど乗るが、体感はそこまで遠くなかった。


他のホテルでも見かけたのだが、ハンガーの付け根が釘のようになっていて、ハンガーの服をかける部分をひっかけるわっかの部分と分離できるようになっている。反対に、わっかの部分から外して移動するのは難しい。



街中に戻る。16:30、暗くなり始めている。





昼ごはんをきちんと食べていなかったので、店が混む前に早めの夕飯にした。オランダ料理を食べられる店に入り、ビールを頼んで、オランダっぽいらしい料理を注文。下から2枚目は舌平目(Sole)の揚げ焼のようなメニュー。魚自体は普通というか、親しみのある感じで、普通に美味しかった。一番下はフライパン料理のお試しセットみたいなもの。基本的には味付け/混ぜ物をしたマッシュポテト+肉(ソーセージや煮込んだ肉)。

店員さんの英語が上手で、かつ親切で感動した。オランダではチップを払わなくていいことが多いと聞いていたが、ここではチップが必要だった。「チップは含まれてないんだけど、チップをつけるかい?」とはっきり聞いてくれたのでやりやすかった。


外に出たら雨が降っていた。寒いし風が強いし雨だし、ちょっと辛い感じ。

僕にとっては思い出のスーパー、Albert Heijn(アルバート・ハイン)に逃げ込む。たぶん10年前に来たのと同じ支店に寄ったと思うが、店内のことは全く覚えていなかった。


特に欲しいものはなかったのだが買わずに店を出るのは難しい雰囲気で、ジュースを買った。「短いレシート」を選択したら、本当に短いレシートが出てきて笑ってしまった。


相変わらず雨。10年前には勇気が出なかったRed light districtの様子を見たりしつつ中央駅まで歩いて、路面電車でホテルに戻った。


一眼レフで撮った写真たち。風が強くて手ブレを抑えるのが難しかった。










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