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2024-11-25 Mo. (1) ブリュッセル観光

昼までブリュッセルに滞在して、電車でNamur(ナミュール)という街に移動した。ブリュッセルではあまり時間がなかったので、ゆっくり観光はせず、近くの有名そうなところを一通り歩いてまわった。写真は小便小僧の像のまわりの様子。



ブリュッセル王宮の方に向かう。


雰囲気がある。


美術館にはなぜか日本語や中国語でも看板が出ていた。


王宮を正面から見たところ。


王宮の正面の公園(庭園?)を通り抜ける。




街の様子 by 一眼レフ。


裏側からサン・ミッシェル大聖堂に近づく。中世風?の建物があった。


サン・ミッシェル大聖堂の裏側。


正面。坂に建っていて、裏(斜面の上側)から見るとそこまで大きくないのだが、正面(斜面の下側)に来るととても大きく見える。ちょっとずるい気もした。


ヨーロッパでもっとも古い部類のアーケード商店街らしい、ギャルリ・サンチュベール。


中の様子。

通り抜けて、朝ごはんのお店を探す。ワッフルを食べられそうな店を探した。


ここに決めた。



ブリュッセル・ワッフル+バナナ+ホットチョコレート、にした。

ワッフルには、この写真のような砂糖などがかかっているブリュッセル・ワッフルと、シンプルなリージュ・ワッフルがあるらしい。ネットには形が違う(長方形がブリュッセル、丸いのがリージュ)と書いてあった気もしたが、現地の人は違うことを言っていて、何が本当なのかよくわからない。


店内の様子。隣の隣のテーブルで日本人の女性2人が仕事の話し合いをしていた。


店の近くの様子。

グラン=プラス(大きな広場)に向かう。




見どころがたくさんある広場なのだと思うが、時間がなくてほとんど素通りだった。


鳥の装飾。少なくとも遠目にはかわいい。


少し歩くと、小便小僧の像がある。どこにでもあるしょうもない像だと思っていたのだが、ブリュッセルが起源と言われているらしく、ブリュッセルには小便少女像もある。行ってみると、散々推している割に、小さくてよく見えない。


像のはす向かいの店にはそのまんま「小便小僧」(Manneken Pis)という看板が出ていた。


電車の時間が迫ってきて、あわててホテルに戻る。帰る途中で連結バスがけん引されているところを見かけた。なかなか壮観だった。

ホテルに戻ってみたら部屋のドアの番号錠が効かなくなっていて、フロントで新しい番号をもらっても開かず、最終的にマスターキーらしき番号を教えてもらって解決した。少しヒヤヒヤした。

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