スキップしてメイン コンテンツに移動

2024-11-25 Mo. (2) ナミュール(ベルギー)訪問

ブリュッセルから電車に1時間半乗って、南東にあるNamur(ナミュール)という街に向かった。Namurが今回の目的地で、ここに4日間滞在する。きれいな街なのだが、Namurはフランス語圏で、意思疎通がかなり厳しかった。写真は夕方にtea roomに行って食べたクレープ。とても美味しかったのだけど、店員さんがフランス語しか話さないと心に決めているタイプ(僕の印象)のお姉さんで、その場ではクレープどころではなかった。


 



ブリュッセル南駅の構内にはハーゲンダッツの店もあった。ワッフルにアイスを載せたりできる。


ブリュッセル南駅はBrussel-Zuid(おそらくオランダ語)とも、Brussel-Midi(おそらくフランス語)とも書かれる。midiというのは正午・昼、という意味らしいのだが、南では太陽が高い、というところからの類推で南部地方を"Midi"と呼ぶらしい。フランス語面白い。


落書きされた電車。


僕たちが乗るルクセンブルク行きのIntercity。当たり前のように国境を越える電車がやって来る。



なんとなく疲れていて、ちゃんとした昼ごはんを食べるのはやめてしまった。


Namurに到着。聞いたことがない街だったし、何があるんだろうと思っていたが、予想外に駅が大きく人もたくさん降りる。


約束があったのでとにかく大学へ。


ヨーロッパでは日本やアメリカのような「大学のキャンパス」を見かけることは少なく、街の中に大学の建物がしれっと混ざっていることが多い。写真の左側はたしか大学の建物。


お世話になる建物の地上階はロビーのようになっていて、おそらく授業前後の学部生たちが勉強したりしゃべったりしていた。若い。


用事を済ませて、ホテルにチェックイン。相変わらずB&B Hotel。


フロントに行き、チェックインのためにパスポートを見せたら「日本語の方がよろしいでしょうか?」と言い始めて(文字通り、日本語で!)かなり驚いた。結局そのあとの手続きはすべて日本語でやってくれた。自分がドイツ語で散々苦労しているので、これだけきちんと外国語を話せるのは本当にすごいな、と思って尊敬した。聞いてみたら、館山に住んでいたことがあるらしい。ホテルスタッフの研修とかなのだろうか。不思議。

最上階の部屋にしてくれて、窓から駅を見下ろすことができた。NAMURと書いてある。


まずは街歩き。崩れそうだから力技で支えている?ということ?怖すぎない?


問題のTea room。すごく素敵な雰囲気で、値段も安くはないがせっかくなのでちゃんとした甘いものを食べたいと思い、入ってみる。

ドイツでは、フルサービスの店では入り口で声をかけてもらうのを待つ方が無難なイメージなのだが、どうやらこのあたりでは勝手に席についてもよいらしい。この時点ではそれを知らないので、入り口でまごまごしていると、フランス語で何かを言われる。よくわからないけど埒が明かないからジェスチャーでやり取りして席についた。

-----

第一関門:メニュー

当然フランス語オンリーで、厳しい。かろうじてGaufre(ワッフル)、Crêpe(クレープ)くらいはわかるので、あとは適当に無難そうな、店の名前が付いたものにした。

第二関門:注文

これはもう絶望的だった。指さして注文すると、フランス語で何かを言ってくれる。運の悪いことに、友人が頼んだ方はなにか問題があったらしく、フランス語で何か聞き返されたのだが、全く意味が分からない。"Oui?"(Yes?)と聞かれて、友人はどうしようもないので"Oui"と答えていたが、結局頼んだのと違うものが出てきた。たぶん「品切れだから代わりにこっちでもいいか」みたいなことを聞かれていたのだろう。かわいそう。

僕の注文の後も一度カウンターに引っ込んで何かを話して戻ってきて、なにか質問された。でも今度は"Oui?"と言われず、様子が違う。どうやら飲み物を聞いているらしい、ということに友人が気付いて、どうにかなった。いや、どうにかなってはいない。コーヒーが欲しくて指さしたら「カフェー?なんとか?」みたいなことを言われた。ドイツ語でもコーヒーはカフェー(Kaffee)だからきっと正しいと信じて「カフェー」と答えて終了したが、自分が何を頼んだのか、出てくるまでわからない。

あまり笑わないお姉さんだったのもあって、フランス語しか話さないペッパーくん(日本でよく見るロボット)に注文しているような絶望感だった。

第三関門:会計

もう腹をくくって、いかに会話を減らすか、しか考えていなかった。伝票とカードをまとめて渡せば、何も言わなくても意図は通じるだろう、という作戦。結局これがうまくいったのと、ここに来て店員さんが代わり、笑顔を見せてくれたりフレンドリーな印象の人になった。フランス語圏こわい、と思っていたが、さっきのお姉さんの問題だったのかもしれない、と思い始めた。

-----

自分だったら日本語を理解できない外国の人の目を見て日本語でしゃべり続ける方が苦痛なのだが、なぜこの店員さんがそうできるのか、とても気になった。本当に全く英語ができないのかもしれないし、接客はフランス語であるべき、みたいな強い信念があるのかもしれない。下手にOuiとか言ってしまったものだから、フランス語を勉強中だと思って、親切でフランス語にしてくれたのかもしれない。何にせよ質問できない(できても答えは理解できない)ので真相は闇の中。


友人はアイスの乗ったワッフルがほしかったのになぜかアイスなしのものが来て、かわいそうだった。僕は頼んだ通りのものが出てきて、セーフ。でも、とにかく、美味しかった。また来たかった。ただ、言葉の壁にだいぶやられてしまって、外食すること自体が億劫になってしまった。


アーケードにはクリスマスツリーもあった。奥の方に大阪なんとか、っていう看板も出ていた。日本料理店がいくつかあるらしい。


知り合いにいくつかNamurのお店や飲み物・食べ物を勧めてもらっていて、それを無視してホテルに引きこもるのも気が引けたので、別のお店でベルギービールにチャレンジ。ベルギービールは種類が多いと聞いていたが、本当に種類が多すぎてどうしていいかわからなかった。度数が平均的に高い(5%~12%くらい)ので、度数で絞ることで選択肢を減らせた。

つまみに頼んだチーズにはコショウとマスタードがついてきた。


店の雰囲気。僕たちは樽が机になっている、おそらくパッと飲んで出る人向けの席に座った。ここの店員さんはだいぶフレンドリーで、注文はフランス語で頑張ったが、ビールを提供してくれる時に多少英語も話せることが発覚。大学の近くだったからかもしれない。tea roomで叩き潰された心が少し回復した。


Namurの街の様子。


川に面していて、サンブル川がマース(ミューズ)川に合流する場所に位置している。写真の川はサンブル川、右側がNamurの中央駅がある市街地、左側はシターデル(山城?要塞?の遺構)。





夜のNamurの様子。一番下がNamur駅。

このブログの人気の投稿

Interpretation des Satzes "Lies dich glücklich!" ("Lies dich glücklich!"の意味)

Eine meiner Freunde hat mich gefragt, was der Satz "Lies dich glücklich!" bedeutet. Ich hatte sofort keine Ahnung davon. Später habe ich es im Wörterbuch und Internet nachgeschlagen, und jetzt denke ich, dass der Satz heißt, "Lies und mach dich glücklich (dadurch)!". Wenn Sie kennen, bitte zeigen Sie mir, was der Satz bedeutet! Es hilft mir sehr. 友達に"Lies dich glücklich!"というフレーズの意味を聞かれて、その場では答えられなかったのだが、気になって辞書やインターネットを調べてみた。"Kauf dich glücklich!"という表現も見つかった。sich(4) lesenという動詞はあるがsich kaufenは見つからなかったので不思議だなと思っていたが、少し経って、どうも"Mach dich glücklich!"に似ているような気がしてきた。これなら言えそうである。machenの部分をもじってkaufenやらlesenにして、「本を読んで幸せになろう!」と言っているのかな、と解釈した。 もし答えを知っている人がいたら教えてください。 令和2年10月29日(木)

なぜ社会は存在しないのか

―あらまし― 最近僕は「社会」を「世界中の人間を包摂してかつ各個人と相互作用するなにか」と定義していて、その存在を信じている人々が「社会人」だと思っている。残念ながら僕は社会人ではない、つまり「社会」の存在が信じられない。それは ①すべてを包摂する概念は認識できない ②「社会」は複雑すぎて個人と相互作用できない ように思えるからである。 台風や季節の変わり目だからか、調子が良くない。やるべきこと・やりたいことはいくらでもあるが、朝起きられない、不安で動悸がして何も手につかない、というわけであまり進まず。他人から見ると怠けているように見えるのだろう。 世の中の多くの人と自分の間で、感覚があまりにも違うように感じることが多い。当事者支援とか当事者研究関連のトピックに興味を持つのは、そういう「周囲」と「自分」のずれに共感するところがあるからだと思う。 ここ数ヶ月(もっと昔からかもしれないし、最近のことかもしれない)、自分が「社会」に属しきれていないという感覚を強く持つようになった。調子が悪くなるとこの感覚が頭(実は体も)をぐるぐるして、色々なことを考える。「社会」について考えることを書いてみることにする。 僕にとっての「社会」 ここで前提として言葉遣い 1) を明確にしよう。ただしこれだけでA4何ページか文章を書けそうだから深入りは避けます。 頻繁に登場する「社会」という言葉は結構厄介で、色々な使い方がある。しかも僕と同じ用法でこの言葉を使う人は多くないと思う 2) 。これがよく勘違いや噛み合わない議論のもとになる。さて、僕は 社会とは、世界中の人間を包摂してかつ各個人と相互作用するなにか だと思っている。それはシステムと言えるかもしれないし、場と言えるかもしれない。細かいところは人によって捉え方が違うだろうだけど、上の定義くらい抽象化すればある程度一般性があるのではないか。 ちなみに、似た使い方をする言葉として「 現代 」もあると思う。「現代」は ―ここでは時代区分の話をしてるわけではないことに注意― だいたい「社会」と似たものだと思う。ただ「現代」の方が時間的な領域感が強くて、それとの対比で「社会」は空間的な領域、という雰囲気が大きいのかなと思う。直近数十年が「現代」であるのに対して、太陽系内くらいの宇宙空間が「社会」...

「無批判的」であること

批判的世の中の居心地悪さ 世の中では「批判的思考」がもてはやされている。我々は学校でも職場でも批判的であることを求められる。私たち全員が十分に批判的な態度を身に着けている、と言うと色々な人に怒られそうだが、少なくとも僕が出会う人たちは、多かれ少なかれ「疑う」ことを知っていて、その意味で程度の差はあれ批判的だと感じる。 これは常に言われることだが、何においてもバランスが大切である。肉ばかり、野菜ばかり、米ばかりというのは良くないらしい。同じように、批判ばかりというのも居心地が悪いな、とよく感じる。生活する中では、批判的にならず、むしろ相手の言葉を文字通りに―いわば無批判に―受け容れることが大切なんじゃないかなあ、と感じる場面がたくさんある。というわけでここでは「無批判的であること」について、思うことを書いてみる。 批判的であること そもそも批判的ってどういうことなのだろう。 Wikipedia 『 批判的思考 』 (2020/11/27閲覧) には (1) 、「批判」という言葉の意味について、次のように書いてあった: 批判という言葉は反対する、受け入れない、などのイメージから否定や非難と同義で用いられるケースが存在するが、批判とは情報を分析、吟味して取り入れることを指し、客観的把握をベースとした正確な理解が必要である。 なるほど、僕の直観に照らして違和感のない記述なので、信用することにする (2) 。そして批判的思考とは あらゆる物事の問題を特定して、適切に分析することによって最適解に辿り着くための思考方法である とのことである (3) 。これを読んで初めて知ったが、批判的思考は問題解決のための思考方法らしい。 さて、ここで僕の中の違和感の正体があっけなく言語化されてしまった。 問題解決が目的ではない場面で批判的になるのはどうなの 、ということである。以上、話は終わり。...というのも悔しいから、批判的でないことについて少し考えてみる。 (1) こうやってすぐにWikipediaに頼る姿勢は批判的とは言えないのだろう (2) 信用と言うと少し語弊があるだろう。正しい情報として信用するのではなく、僕の感覚的な理解を言語的に表現したものとして適切だと認める、ということである (3) 「あらゆる」物事の、というのは引っかかるところである ...