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2024-11-27 Mi. in Namur(ベルギー)

今日の午後は予報通り天気がイマイチ。朝少し散歩をして、夕方にも小雨の中街歩きをした。またフランス語に足元をすくわれて、アイストッピングのワッフルを頼んだつもりだったのに、単品のアイスとワッフルを両手に持って雨の中食べ歩く羽目になった(美味しかった)。

夕方のどこかの広場。





少し疲れている気がする。昨日の夜にスーパーで生姜ショットを見かけて、見たことのない緑色だったので、つい買ってしまった。生姜ショットオタクになりつつある。


アーケードを通り抜けて


街を歩いて


朝ごはんを食べにtea roomに入る。ここは多少英語も通じた。また月曜日に受けたショックが大きくて、あわててDuolingoでフランス語のあいさつを勉強した。それで店に入るときと出るときのあいさつだけはフランス語でできるようになり、少しは気持ちが楽になった。


このあたりではコーヒーにミルクとホイップクリーム(甘い)が両方ついてくる。チョコレートやビスケットもついてくる。甘いものとコーヒーを頼むと、結局 スイーツ+コーヒー+甘いクリーム+ミニスイーツ という編成になる。


おススメされていたスペキュロス・アイスを食べてみたくて、そのアイスをつけられるアップルケーキ(タルト?パイではない気がするんだけどなんだったっけ?)を注文。美味しかった。




近くの公園を散策。


昼ごはんは、現地の学生に教えてもらったミートボールの店に買いに行った。ここも英語が通じた。どうも英語がネイティブではない人たちに英語で話しかけるのが苦手で、片言の(というか挨拶しかできない)フランス語 or ジェスチャーのいずれかで頑張ろうとしてしまう。そうやってもじもじしていると向こうが英語を話してくれることがあって、そこまでできないフランス語で頑張ろうとしていた時間が恥ずかしくなる。


チーズケーキを食べたかったのだが、勧められていた店には置いておらず、あきらめて散歩。小雨+強風でちょっと辛い感じ。



教会の脇の広場。


問題のアイスクリーム。テイクアウト専門店で、ワッフル3ユーロ+アイストッピング2.5ユーロ、とあったので、ワッフルとスペキュロスアイスを注文した。しかしあとから考えたら、6ユーロ払っていた。商品を待っていると「アイスはカップ?コーン?」と聞かれて、あれれ、と思いながら誘惑に勝てずコーンと答えた。答えてから、あれ、単品じゃん、と気付いたが、ときすでに遅し。このアイスを渡されて、さらに自分のワッフルが焼かれているのが見えていた。両手がふさがって傘がさせない。寒い雨の日に、傘の代わりにアイスとワッフルを持って街を歩いている怪しいアジア人になってしまった。むしろ楽しかった。


大学のお茶部屋に逃げ込む。アイスはとても美味しいのだけど、これのあとにワッフルが待っていると思うと、ちょっと憂鬱。しかし研究室でコーヒーをゲットできたのと、ワッフルが予想外に軽くて、比較的ハッピーに食べ終わることができた。


今回滞在したのは数学科だった。


地上階には学生向けなのであろう、スナックの自販機がある。ワッフルも入っている。地元の人も好きなんだな。


夜遅くなったので夕飯はスーパーで買って済ませた。桃の入ったサラダ。


「ピンクドラゴンショット」。生姜ショット以上に得体のしれない飲み物だが、身体にいいに違いない。

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