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2024-12-07 Sa. (1) シュトレンの街ドレスデン

ベルリンから南に2時間ほど特急に乗り、Dresdenへ。シュトレン発祥の地・ドイツ最古のクリスマスマーケットが行われる街として知られている。今日の目当てはもちろんクリスマスマーケット。一眼レフで撮った推しの写真たちを別の場所(Flickr)にまとめたので、もしよければ見てやってください。

これは9月に突然崩落してしまった橋の残骸。よく見ると路面電車の線路が川に突き刺さっているような、異様な光景。残念ながら最近のドレスデンは「橋が落ちた街」としても知られている。





おなじみRE1でベルリンへ。


ベルリン中央駅に到着。


エスプレッソ・マキアートを飲んで時間をつぶす予定だったが、朝ごはんのパンを家に忘れて急遽クロワッサンとバナナも購入。立ち席。ヨーロッパっぽい、気がする。


InterCityでDresdenへ!8:03発でも結構混んでいた。


Dresdenが近づいてきて、ブランデンブルクとは違う雰囲気の車窓になった気がした。


Dresden Neustadt(新市街)駅。


エルベ川を渡る!


ドレスデン中央駅に到着。なんと時刻表よりも11分早く着いた。車掌さんがプロ意識のある人で「残念ながら、ドレスデンの到着が11分早くなってしまいました。ご容赦ください。」と電車が遅れたときと全く同じ構文でアナウンスをして、乗客を笑わせていた。そのあとも「車内をよく確認して、お手回り品、ご主人、奥様をお忘れなきようご注意ください。」と言って一笑いとっていた。


中央駅の旧市街側の外観。


トイレに行く。クリスマスマーケット会場なら無料か?と思ったが、甘かった。80セントなので少し安い?


「ザクセン薬局」


ドイツ最古のクリスマスマーケット、Striezelmarkt(シュトリーツェルマルクト)、だと思う。


完全に偶然なのだが、今日は年に1度のStollenfest(シュトレン祭り)の日。しかも天気も悪くない。ただでさえ12月の週末のドレスデンは混むはずだが、今日はより混雑するかもしれない。会場になっていた仮設の舞台。


さすがにせっかくなのでシュトレンを買う。金色のシールがついているシュトレンだけがドレスデン銘菓(Dresdner Stollen)を名乗っていいとか。ただし金色のシール付きのシュトレンはベルリンでも売っていた。


シュトレン祭りのパレードの準備?


Advent auf dem Neumarktでバウムクーヘンを見かけたので買ってみる。ドイツでは高級菓子という位置づけだと聞くし、実際全然街中では見かけない。左奥で薪(まき)を燃やしていて、そこでバウムクーヘンを焼いていた。


たったこれだけ(1/2リング)で5ユーロ。高級菓子。日本のものよりずっしりしていた気がする。


エルベ川を橋で渡り、Neustadtのクリスマスマーケットを通り抜けたところ。この熊かわいいか?


研究室の友人に勧めてもらったレストランを目指して歩く。少し歩く場所で、勧められていなかったらこんなところに来る勇気はなかった。


開店時間ぴったりについたら待たずに入れた。予約がまあまあ入っていた。Raskolnikoff(ラスコルニコフ)というお店。


誘惑に勝てずビール。健康志向なので(高いのに)水も買う。


店の外観。


旧市街に戻りたいが、まずは川を渡らないといけない。残念ながら橋が1つ崩落しているので、この橋を渡ってエルベ川の向こうに戻るぞ!


無事に橋を渡った。落ちなくてよかった(本気で心配しないといけないかもしれない)。


船が走っていた。


問題の崩落した橋。見に来ている人が意外といる。面白がっているというよりは、深刻にショックを受けていて信じられないから見に来てしまう、みたいな人が多いのでは、と予想している。


半分崩れた橋の下は通れないので、迂回せねばならない。


看板から橋が消されていた。


崩落した橋の入り口の像。空襲で焼けて黒いのだとすれば、比較的古いものかもしれない。


観光名所Brühl-Terrasseは川沿いの高台で(要塞・堤防の上なのかな)、エルベ川の眺めがよい。そこに行きたかったのに、なぜか川側の低い方に出てしまった。見下ろされる景色になった。外向きにも装飾があることがわかった。


冒頭にも載せた落ちた橋。何度でも写真を撮れる。


Brühl Terrasseが要塞のような役目を果たしていたのかな、と思わされた景色。


やっと今日の写真の半分を載せることができた。多すぎるので続きは次の投稿にわけよう。

一眼レフで撮った推しの写真たちはFlickr上にまとめてあります。かっこいい電車の写真とか、トラクターに牽かれる巨大シュトレンの写真とかがあります。

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