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2024-12-07 Sa. (2) ドイツ最古のクリスマスマーケット(第590回)

ドレスデン日帰り旅行の後半。日が落ちてクリスマスマーケットが楽しい時間になった頃に雨が降り出したが、それでも激混みだった。写真はドイツ最古、590回目のStriezelmarkt。


これを含む一眼レフでちゃんと撮った写真たちは別の場所(Flickr)にまとめた。



オペラハウス。


王宮だったかな。記憶があいまい。


オベリスクかと思ったがキリスト教関連の石碑?だった。


そこら中の広場でクリスマスマーケットが開かれている。


「中世のクリスマスマーケット」の入り口を探す。ここかなと思ったけど


角を回り込んだところにある、とのこと。どこだ。


ここでした。


入場料がかかる。平日は無料なのかもしれない。たしか5ユーロ。



中世の雰囲気に揃えられている、というのが売りで、見てみたかったのだが、正直よくわからなかった。


結局あまり自分には響かず、10分くらいで出てしまった。


少し歩いて街の中心部から出ると、団地のようなものが見えた。雰囲気が違う。


どうせトイレにお金を払うんだから、博物館のチケットを買ってトイレも使おう、という発想で市立博物館へ。


ドレスデンの歴史が紹介されていた。


ドイツ最古(のはず)で大規模なStriezelmarkt。クリスマス飾りのような工芸品も結構売っていて、楽しい。


ショッピングモールのスーパーで水を買う。



実は初ALDIだった気がする。スーパーのチェーンの一つ。


前のペットボトルのデポジットとの差額を支払う。


少しずつ暗くなってきた。超混雑。自由には歩けない。


たぶんStriezelmarktの真ん中の飾り。この飾りはたいていのクリスマスマーケットに置いてある。各段と一番上の羽が回ることが多い。何なのかはわからない。


Frauenkirche(聖母教会?)近くの広場。


合流した中国の友人が、Striezelmarktに中華料理の屋台が出ていると教えてくれて、一緒に食べに行く。汁なしそばみたいな感じ?美味しかった。


50cm焼きソーセージ(Bratwurst)とグリューヴァイン。50cmあるのだが半分に折りたたんでくれて、意外と食べやすかった。


帰りの電車の時間になった。中央駅。



チェコのプラハから直通の特急(EC: Euro City)で(実はハンガリーのブダペストまで行くのかもしれない)、おそらくチェコ国鉄?の車両なので、車内の張り紙などがチェコ語(たぶん)。


ドアを閉めるボタンもついていた。ドイツ国鉄の車両では見ない。


こんな感じ。


缶入りのドレスデン式シュトレン1kg。缶が素敵。


Glühweinは時間までに飲みきれず、デポジットを回収できずにカップを持って帰ってきた。Striezelmarktのロゴ入りなのでお土産だと思うことにする。

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