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2024-12-08 So. 夜のベルリン

暗くなる頃にベルリンに繰り出して、クリスマスマーケットを巡った。夜は暗いので一眼レフに頼ることが多い。

写真はAlexanderplatzのクリスマスマーケット。大きな飾りとテレビ塔。



朝食はフラットブレッドに適当に炒めた卵を挟んだもの。この日は、なんと夕飯にもフラットブレッドを食べることになった。(乞うご期待)



日中はなんとなく大学に来てしまった。


アドベントカレンダーも開けなきゃいけないし!



冒頭の写真と併せて、Alexanderplatzのクリスマスマーケット。店のラインナップはいい感じなのだが、周りが都会的過ぎて雰囲気はそこそこ。とはいえ、昨日ドレスデンに行ったばかりで、それと比べるのはかわいそうな気もする。







Rotes Rathaus(赤の市庁舎)付近のクリスマスマーケット。規模が大きく、雰囲気もよくて、結構好きだった。


Quarkbällchenを食べる。たしかこのときが初挑戦で、結構気に入った。見た目はヘビーだがかなりしっとりふわふわで、軽く食べられる。人には、しっとりふわふわなサーターアンダギー、と説明している。



しばらく歩いて、休憩も兼ねて前から気になっていたチョコレート屋さんRauschのカフェに入る。


ホットチョコレートを頼むときに、ベースのカカオ濃度とフレーバー(クリーム・オレンジ・チリ!・お酒など)を選ぶことができる。その下に「ミルクなし」という選択肢があって、エスプレッソみたいな感じを想像して注文したら、「飲み物ではなくてスプーンで食べるものだけど本当にいいの?」と確認された。写真では伝わりにくいが、たしかにとても濃い。しんどくはないし美味しかったけど、水があるのがかなりありがたかった。溶かしたチョコレートに普通の固形チョコレートもつけてくるという、チョコ地獄。


ポツダム広場のマーケットには巨大な滑り台(そり台?)があった。


地下鉄で移動。


Kaiser Wilhelm Gedächtniskirche(記念教会)周辺のマーケットへ。




なかなか規模が大きい。


昨日ドレスデンで見かけてから、マッシュルームを大きなフライパンで炒めて?いる屋台料理がずっと気になっていて、ちょうどここにもあったので頼んでみる。


顔より大きいフラットブレッドに詰めて売っていた。肉とキノコのハーフ&ハーフ(メニューにはなかったけどできた)を注文。せっかくなのでGlühweinも飲む。

机(椅子はない)を確保していざ食べようとしたら、相席(椅子はないけど)していたドイツ人夫婦に話しかけられた。フラットブレッドが相当大きくて、これを持っているだけで周りの人にクスクス笑われる。たしかこの夫婦も最初はフラットブレッドの話を振ってきたのだが、どうやらクルーズ船で日本に寄ったことがあるとのことで、日本の話を色々とした。マグロは辛うじてわかったが、「カツオ」のドイツ語はわからずに調べた。長くベルリンに住んでいるらしく、ここが2016年にベルリンのクリスマスマーケットで起きたテロの現場だった(ちょうどご飯を食べていたあたり)ことも教えてくれた。

結局おしゃべりに必死でほとんど食事をできないまま電車の時間になり、一緒に写真を撮って解散した。

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