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2024-12-15 So.(1) Salzburg(オーストリア)

せっかく在来線乗り放題券(Deutschlandticket)があるので、今日は小旅行をする予定にしていた。紆余曲折あって、オーストリアのザルツブルクに一瞬行って、帰りにドイツのPrien am Chiemseeという駅で降りて湖に浮かぶ島に行く、という行程になった。一眼レフの写真はFlickrのアルバムにまとめてある。

前半はSalzburg編。城に登る途中の高台から見た街の様子。




ホテルから地下鉄でミュンヘン東駅まで移動。

もともとノイシュバンシュタイン城のあるフュッセンに行くことを考えていたが、日曜日のバスの時刻表が怪しかった(本数が多いかもしれないし少ないかもしれない:ドイツではちょっとリスキー)ので慌てて予定を変更した。我ながらだいぶ無理のある旅程を組んだ。


電車は妙に混んでいた。どうやら国境地帯のアルプス山脈でハイキングをする人が多いらしい。

Deutschlandticketは基本的にドイツ国内で有効なのだが、一部の国境をまたぐ路線は例外的に国境の向こう側でも有効になる。さすがに不安だったのでDeutschlandticketが有効な会社・区間の一覧表(ドイツ語だけどドイツ人でも読まなさそうなPDFファイル)を確認した。




アルプスに突入していく感じ。当然携帯の電波はほとんどなかった。


オーストリアのザルツブルクに到着!簡単すぎて国境を越えた実感がない。言葉もだいたい同じだし。


知らない配色の電車がいると、知らない地域に来たな、と思う。


街にはトロリーバスが走っていた。


バス停のマーク(H)はドイツと同じに見える。


街の作りはドイツとだいたい同じに思えて、地図をチラ見しながら「教会があれば広場もあるよねー」「きっと川のこっちが新市街で向こうが旧市街かなー」みたいな感じで適当に歩ける。もちろん地図は見るしGoogleにも道は聞くのだけど、勘が効くとだいぶ歩きやすい。


もちろんクリスマスマーケットをやっている。


街の感じはドイツでも見るような雰囲気ではあるが、たしかにきれいなのと、山に囲まれているから?なのかこじんまりとしていて、ぎゅっとしていて雰囲気がよかった。



この雰囲気は、自分にとってはTHE ヨーロッパという感じ。中央ヨーロッパしか知らないけど。


モーツァルトが暮らした家?だった気がする。生まれた家だったかもしれない。Salzburgはモーツァルトや、Sound of musicのロケ地だったとか、(意外と)見どころが多い。今日は観光をする余裕はほとんどなく、とにかく街を歩いて雰囲気だけ把握することを目的にしていた。


ザルツァハ(Salzach)川の両側に町がある。中央駅は新市街(たぶん)側にあり、橋を渡って旧市街側へ。


またクリスマスマーケット。


旧市街って感じ。というのは、より道が狭くてごちょごちょしている、という印象。


手書きの楽譜のスケッチっぽい旗が出ている!ベートーヴェンハウスで似たものを見た記憶がよみがえる。きっとここがモーツァルトの生まれた家なのだろう。


正解!残念ながら博物館に入る時間はないので、素通り。


町には当然広場がある。


クリスマスマーケットに付随しがちなアイススケート場。



雪が残っている。


町を見下ろせる場所にあるSalzburg城(名前は定かではないが、とにかくザルツブルクにある昔の砦)には歩いて行くことができるが、ケーブルカー?斜行エレベーター?で登ることもできる。そこそこ並んでいたしお金もかかるので、歩く。



だいぶ上まで登るように見える。ここに金管を持った衛兵?のような人たちが出てきて、音楽を演奏しているときがあった。素敵だった。


冒頭の、街の様子。




とにかく登る。急なのだが、その分距離は短い。

しかし!頑張って登ったのに、ゲートが出現した。どうやら敷地に入るだけでお金がかかるらしい。残念ながらお金を払って見学するほどの時間はないので、断念。つまり、この道をただ下る。登ったばっかりだけど。



手前にいる黒いのがケーブルカー。


麓まで降りてきた。そろそろ電車の時間が気になり始める。



せっかくなので、クリスマスマーケットでビールを買ってみた。瓶だけど仕方がない。上に写真が登場していたStern Adventで買ったのだが、どうやらStern Bierというビール屋さんの中庭でやっているマーケットらしい。瓶はただ屋台に置かれていたのだが、とにかく寒いのでキンキンに冷えていて、よい。


酔っぱらいながらGoogleの案内をチラ見しつつ駅に向かう。一緒に歩いていた友人は不安だったに違いない。


中央駅は少し旧市街から離れているので、一駅隣から乗ることにした。中央駅とは川の反対側にある。


駅。予想以上に何もない駅で、昼ご飯を調達できなかった。


DB(ドイツ国鉄)が運行する電車ですよ、という案内が出ている。DBの電車が走っている区間なのでDeutschlandticketを使える、という理屈なのだと思う。ありがたい。



電車が来た!わけではない。オーストリア国鉄の特急に通過されるところ。


なんでこんな写真を撮ったんだろう。台車のバネ?マニアック過ぎない?


数駅乗って、国境近くの駅で乗り換え。


ミュンヘンから持ってきていたパンを電車で食べる。

ここでとめて、Chiemseeの写真は次の記事にわけよう。

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