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2024-12-20~22 年末休暇(2) in Hamburg

2泊3日で北側のハンブルクへ。北海に面していることになるのか、エルベ川で北海に接続しているのか、結局よくわかっていないが、とにかく港町。しかし、真の目的は僕の好きなドイツのロックバンドのライブに行くことだった。わがまま。

写真は宿の近くの高台から運河を見下ろした様子。

2024-12-20

BerlinでICEに乗ってHamburgへ移動。


地球の歩き方に載っていたレストランに行ってみた。雰囲気が良い感じで場違いかなと思ったが、開店の時間に行ってベビーカーを持ち込めるか、とか相談したらとても気持ちよく接客してくれた。HolstenはHamburgのあたりでよく見るビールの銘柄らしい。


Labskaus(ラプスカウス)というハンブルク料理を試す。コンビーフと和えたマッシュポテトが強烈な色になっていて、上側は酢漬けのニシン。ニシンの酸味も気持ちよくて僕はかなり好きだったのだが、好みはわかれるのかも。繰り返すが僕はとても好きだった。

ちゃんとしたレストランで食べたから美味しかったのかもしれない。


この日のメインはMiniaturewunderland(ミニチュアワンダーランド)という、実はハンブルクでも一番の観光名所かもしれない施設。狂ったような規模でジオラマが展開されている、という施設で、おそらく開館から20年ほど経ついまでも拡張され続けている。

恐ろしいのは、ただ電車がぐるぐるしているだけではなく、写真のような指令所があってリアルタイムに色々な場所が制御されている、という本気っぷり。


15分くらいのサイクルで夜がやって来る。


規模感が違う。この作り込み具合のものが広い建物2階分ある。


地域と対応してエリアが区切られていて、ここはスイスの山岳地帯のエリア。2階分吹き抜けで山がつくられている。





特に狂気を感じた、空港エリア。飛行機が滑走路に着陸すると、ターミナルまで自走し、停止して、搭乗口の伸び縮みする通路が実際に動いて飛行機に接続する。しばらく時間が経つと反対に飛行機は出発して、滑走路まで移動して、離陸していなくなる。これがずーっと繰り返されていて、みんな釘付けになっている。ぜひYouTubeとかで見てみてほしい。

ときどきエアバスの大きい飛行機とか、架空の有名な乗り物とかが混ざって来る。

2024-12-21

なんとなく街中をウロウロしてみた。前日にMagdeburgのクリスマスマーケットで事件があったこともあり、人気すぎるスポットは避けようかしら、などと考えながら動く日だった。

そして夜には僕にとっての目玉、ライブがあった!


こちらの友人の勧めでユースホステルに泊まってみた。とにかく安くてよかった。


ミュンヘンでも見たビスマルク。ここもプロイセン寄りではなかった場所なのだろうか。


市庁舎。


その前の広場ではクリスマスマーケットをやっていた。港町で魚が有名で、魚料理も多い。せっかくなので魚フライバーガー(バーガーではないのだけど)を食べた。



特定の時間に店の屋根が開いて、ビートルズの人形が出てきてビートルズの曲が鐘で(違ったかも)演奏されていた。ハンブルクはビートルズが下積みをした街。


昼ごはんをショッピングモールのフードコートで調達。この前の失敗があり、少し慎重になっていたが、なにせ選択肢がないのでどうしようもなかった。結果的にパスタは美味しかった。


せっかくなのでDeutschlandticketで乗れる船に乗った。運河を走る観光船が観光スポットなのだが、Deutschlandticketでフェリーに乗れるならそれでいいか、と思ってしまった。



夕飯どきに宿を抜け出してライブ会場の体育館へ向かう。


スムージーで栄養補給。


駅から人の流れに任せて歩いて行くと、体育館前に長蛇の列ができている。基本的にドイツ語でしか歌わないバンドなので当然外国人の客はほとんどおらず、間違って列に並んでしまったアジア人にしか見えなかっただろう。


かなり紆余曲折あった(超すいている別の入り口があった&荷物制限で買ったばかりの水と日本から持ってきた目薬を捨てさせられた挙句、結局目薬を拾ってリュックごとクローク的なところに預けることになった)がとにかく会場に入れた。グッズも買って、あとは開演を待つのみ。ここならまあまあ見えそうである。


メインステージとサブステージがあった。日本の感覚でステージとの距離感を考えていたのだが、ドイツ人は背が高い!ライブが始まってみんなが前に詰めると、前の人の肩しか見えなかった。アリーナでのライブが初めてだったので知らなかった。仕方がない。

後ろのおばさんに注意されたり(でもあとで謝ったら全然怒っていなかった)、そのおばさんと横の大柄ドイツ人カップルがバチバチしていたり、色々と気になることはあったが、ライブに来られてよかった。


ドイツではありがちな「技術的な問題 technische Probleme」でライブが遅れて、電車に乗ったのは23:00過ぎ。お腹が空いていたが当然買い物できる店は開いていなかった。


最寄りまで帰ってきた。ハンブルクでは、地下鉄に相当する路線が高架を走る区間も多く、Hochbahn(高架鉄道)と自称していた。たしか。

2024-12-22

BerlinまでICEに乗り、ポツダムに帰る。


ハンブルク中央駅の外観。このあとしばらく周辺を散歩したり、カフェに入ったりした。


すごく大きいわけではないが、湖。


広場や通りでクリスマスマーケットをやっていた。

帰りのICEは子連れ専用の半個室を運よく予約できた。追加料金はないが、1編成に1か所しかないので、ラッキーだった。

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