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2024-12-31 Di. 大晦日 in ドイツ

昨日家族が日本に帰ってしまい寂しかったが、今日からは友達が遊びに来てくれた。

ドイツでは大晦日・元日にだけ、花火を使うことが許されている。年越しの夜には、日本では花火大会でしか見ないような打ち上げ花火を普通の人たちが普通の場所で発射する。写真にたくさん写っている花火は、少なくともほとんどが普通の人が打ち上げたものなのだと思う。盛り上がるけど、狂っている。



昨日の記事に載せるべきだった写真。家族とわかれて遅延した飛行機+遠回りのSバーンで1時過ぎに帰ってきたら、クリスマスツリーの残骸が廊下に出ていて、なんとなく切なかったので写真を撮ってしまった。


朝の様子。9時前かな。普通。

店が閉まる前に食料品を買い込んだり、北の方にあるMeiereiというBräurei(ビール屋のレストラン)に昼ご飯を食べに行ったりしていたら、夕方になった。

花火1個に点火するためだけにライターを探し回って、結局ライター3個セットを買う羽目になった(それが最安だった)。ライターは店員さんに頼まないと手が届かない場所にあり、店員さんに「とにかく安い火をつけられるものをくれ」と言ってマッチを買いかけたのだが、「何に使うの?」と怪しがられて、花火と答えたらライターを勧められた。ありがたい。


夕方はポツダムのニコライ教会で大晦日のコンサートを聴く。Europe Symphony Orchestraの演奏だった。はじめて中に入った。安いチケットだと2階席に案内されて、立たないと舞台は全く見えなかった。


友達が何人か来てくれたし、年越しだし、はしゃいで飲み物をたくさん用意した。たしかノンアルビール2本、普通のビール2本...あれ1本多いな...とスパークリングワイン(一番右)。ドイツではお祝いのときにスパークリングワインを飲むと聞いたので買ってみた。

しかし、みんな日本から来たばかりで時差ぼけ+旅の疲れにやられていて、スパークリングワイン以外はすべて冷蔵庫に残ったままになった。


夕飯は、ドイツのお祝いで定番と聞いたラクレット。たぶん準備に必死で写真を1枚も撮っておらず、有人の写真を借用。

なんと、こちらの研究室の友人がラクレットグリルを貸してくれた!チーズその他の材料はスーパーで調達して準備完了。こちらも、みんな自分と同じくらい食べると思って材料を用意したら完全に余らせてしまった。


すでに日中から花火を打ち上げている輩が一定数いたのだが、さすがに年越しが近くなると数が増えてくる。それぞれの花火の大きさはちょっとした花火大会級で、数は花火大会の比ではないのだが、とにかくすべて野良花火で連携は取れていない。そのせいでそれぞれ違うタイミングに光るから、写真にすると伝わりにくい。

ちなみに友人がカップ麺のリッチなそばを持ってきてくれていたのだが、ラクレットでみんなお腹いっぱいになってしまい、年越しそばは実現しなかった。



そこら中で花火があがっているのがわかる。





ずーーっとこの調子で、年越しのタイミングで超盛り上がった後、少なくとも30分くらいはテンションマックス、という感じだった。その前後も決して静かなわけではなく、3秒おきに「ドン!」と聞こえるような感じだったと思う。


せっかくなので自分たちでも1つ試した。打ち上げのものは値段が高く、高さも45mと書いてあって勇気が出ず、安くて飛ばないものを買った。これでも高さ4m、点火したら8m以上離れろ、と書いてあるもの。日本だったら壮観だった気がするが、あれだけの打ち上げ花火を見てしまうと、もっと派手なものをバンバン打ち上げたかった、という気持ちもあった。いや、でも怖い。

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