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2025-01-03~05 年始休暇(2) in Brandenburg & Berlin

友達とPotsdam, Berlin周辺で観光。


Deutschlandticketを買ってもらったので遠出もできて、行ったことのなかったBrandenburg(町)にも行った。そのときに雪に降られた様子。



1月3日

午前中はPotsdam周辺を散策したのだと思う。おそらくサンスーシ公園を歩いて、街中に出てきたはず。記憶が怪しい。

Dutch Quarterにあるオランダパンケーキ屋で昼食。なぜかパンケーキの写真を撮り忘れた。


開店直後を狙ったりして、僕は毎回入れているのだが、席数の割に人気店なので満席で帰っていく人がそれなりにいる。


そのあと弾丸ブランデンブルク訪問。ポツダムはブランデンブルク州にあるが、この州都はポツダムで、ブランデンブルクではない。




寒かった上に雪も降り始めたので、路面電車とバスの車窓から観光する作戦にした。地図を見て、新市街を通り抜けて旧市街の中心っぽいところに向かう。名前を忘れてしまったが教会。



違う路線に乗って、新市街の中心へ戻る。



ブランデンブルク州らしく、川?運河?で町がいくつかの島にわかれていて、1周目で見逃した島も通るべく、新市街から別のバスに乗った。正直よくわからなかったが、市庁舎周辺を見ることはできた。

特にどこかに寄ったりはせず、2時間くらいで電車に乗り、ポツダムに戻った。


1月4日

メインイベントはベルリンの北側にあるOranienburg(オラニエンブルク)という街にある強制収容所跡、Sachsenhausen(ザクセンハウゼン)強制収容所の見学。Berlinの中心でS Bahnに乗り換えて終点まで40分ほど乗り、さらにバスに乗って向かう。


バス停。平日は違うかもしれないが、バスは2時間に1本しかなかった。しかしとても混雑していて、ほとんどドイツ語は聞こえなかった。収容所跡を見に行く外国人しかいない、という感じ。


収容所の見学にお金はかからない。気合を感じる。基本的に写真を撮る気にはなれず、かなり重たかった。だいぶ寒くて雪が積もっていたので、絶望感が増して、リアリティという意味ではよかったのかもしれない。僕はこっちに来るまで知らなかった場所だが、首都ベルリンから近かったので力を入れて設置・運用されていた収容所らしく、日本を含めて外国の政府関係者が見学に来ていたらしい。


想像の2倍くらい時間を使い、お腹が空いて、駅まで歩く道で焼きソーセージを買った。パンに挟んでくれる。


Sバーンの終点の駅。Berlinの中心に戻り、夕方は新美術館(Neues Meseum)を観た。1回目はしっかり見られなかったので、もう一度来られてよかった。


Potsdamに戻るときにお腹が空いたのでFriedrichstrasseでパンを買う。プレッツェルなどと同じ水溶液に浸したBrötchen(朝食パン)。

夕食はPotsdamのお店へ。一緒に留学している友人と3人で寿司を食べた。街の中心から少し離れた、自分の家の近所の店で、これまで食べた中で(3軒目)一番美味しかった気がする、という話になった。


1月5日

この日のメインはFrankfurt / Oderからのポーランド。スルヴィチェ?という町、発音に自信がない。


人と一緒にいる上に2回目なので写真が少ない。この橋を渡るとポーランド。


こちらも地面は白い。


壁から赤い車が飛び出している。この店も友人に勧められていたが、今日は見送った。


結局前回と同じレストランへ。ドイツ語が通じて(レートはきっと悪いが)ユーロで支払えることがわかっているので、安心。普通にお店の雰囲気も好きだった。

ビールは知らない名前のものを注文してポーランドのものだろうと思っていたが、出てきてから調べてみたらたしかイタリアのビールだった。やられた。


鶏肉にコーンフレークをまぶして揚げた、Schnitzelに近い料理。美味しかった。


Berlinに戻って、時間に余裕があったのでペルガモン博物館の代わりになっている、ペルガモンのパノラマ館へ。ちょっとバカにしていたのだが、かなり刺さってしまい、同じアーティストの他のパノラマ作品も見に行きたくなった。

建物を出たら雪が降っていて、積もっていた。


博物館の島の中心といえる、Lustgarten。雪景色。


おそらく地下鉄のベルリン中央駅。寒いので外を歩く気分にはならなかった。


日本(山口)から持ってきてもらった栗のお菓子。美味しい。ありがとう。


...こんな感じで3週間強の年末年始休暇を楽しみました。

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