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2024-11-09 (2) ベルリンの壁崩壊35周年

 1989年11月9日にベルリンの壁が機能しなくなり、崩壊した。今日はそこから35周年で、ベルリンではかつて壁のあった場所にプラカードが設置されており、20時から記念式典が企画されていた。せっかくなのでポーランド遠足の帰りに寄ってみた。写真はメイン会場のブランデンブルク門の様子。




Friedrichstrasse駅でFrankfurt/Oderから乗ってきたRE1を降りる。月が明るい。


通りを南にしばらく歩いて、チェックポイント・チャーリーへ。ここを挟んで米ソの戦車が対峙したこともある、冷戦の象徴的な場所。

ソ連兵の写真(裏側はアメリカ兵の写真)の横にある画面は、35周年を祝うために設置されたもの。普段は車が通る場所だが、今日は歩行者天国になっていた。


近くにはベルリンの壁にまつわる出来事をまとめた屋外展示があった。暗くてちゃんと見られなかったが。写真はベルリンの壁が崩壊した後に、壁を撤去している様子。これだけの規模の壁を壊すってたしかに大変だっただろうな。


昔の壁の一部。たぶん場所は移動している。おそらく右側が東ドイツ側(壁の外側)で、東ドイツ(右)側の足元が左よりも長い。車で壁に直接突っ込ませないようにこういう作りになっているのだとか。壁はときどき改良されたので「第X世代」と区別できるらしく、この壁はModelなんとかで云々...みたいな説明があり、面白かった。


壁は大部分が撤去されており、昔の地図を探さないとどこに壁があったのかわからない。しかし今日は4kmにわたって、壁があったところにプラカードが並べられている。


壁が保存されているところもあった。左側が壁。一番上に丸い筒がのっていて、なにかをひっかけてよじ登れないようになっている。


まだ冬の入り口だが、だいぶ寒い。ショッピングモール(Mall of Berlin)に入って、温かい飲み物を買った。これはチャイラテ。


20時からのコンサートを見るためにブランデンブルク門に向かう。「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」の横から門の方向を見ると、黄色い光が空を照らしている、おかしな光景が目に入った。


門に到着。旧西ベルリン側に舞台があり、すでにギラギラしている。人もたくさん集まっていた。


これだけ人がいると何かの標的になりそうで怖いので、多少人が少なく逃げられそうな場所から見学。


もちろんこのライトは動く。最初の20分くらい(体感)は司会の人やゲストがおしゃべりする時間で、壁の建設から崩壊までのダイジェスト映像も流れた。映像としては博物館で見るようなもののつなぎ合わせのはずなのだが、壁ができて人々が離れ離れになって、壁が崩壊して再び会えるようになるまでを数分で駆け抜けた感じで、妙に心を揺さぶられた。


イベント自体は楽しいのだが、この人数が一気に帰るのに巻き込まれるのはしんどいと思い、中央駅近くの会場に移動することにした。移動中に空を見上げると、こんな感じ。これだけ切り出すと世紀末感がある。


今度は連邦議会(Bundestag)の脇、連邦議会図書館沿いの会場へ。メイン会場の門と比べるとどうしても寂しい感じはするが、中継でつながっているので雰囲気は楽しめる。門やここを含む5カ所で総勢700人のミュージシャンが同時に演奏する、というのがこのイベントの見どころらしい。


もっと中央駅の近くにも会場があるらしいと聞き、そこを目指す。写真は途中で見た中央駅の様子。結局、Futurium会場にたどり着いた。


最後の曲ではブランデンブルク門で花火がばんばんあがっていた。ちょっと惜しいことをしたかもしれない。


やはり異様な光景である。宇宙戦争感がある。


帰りの電車まで少し時間があったので、中央駅でカリーブルストを買うことにした。Curry 36という、たしか地球の歩き方で見かけた店。ソーセージの腸あり・なし(mit / ohne Darm)を選ぶことができた。ベルリンでは腸なしが普通、とネットに書いてあったので、そっちにしてみる。ソーセージを切って提供してくれることもあり、別に違和感はない。


ポテトも頼んだ。店員さんに「どこから来たの」と聞かれて「日本」と答えたら、「こんにちは」「ありがとう」と言ってくれて驚いた。


Potsdamに帰ってきたら、中央駅の駅ビルの通路を掃除していた。ドイツではこんな感じで、清掃カートのようなもので屋内を掃除している様子をよく見る。大学の廊下もこれで掃除している。

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